白豚ノート

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

慕情の根

 人を想うには、エネルギーが要る。強く想えば想うほど、想いをより遠くへ届けようと願うほど、「想い」は自らの中にも食い込み、内側から身体を締め付けていく。草木が上へ、上へと伸びようとすれば、それと同じだけ地中に根を深く這わせなければいけないように、「想い」の根は心の深くまで伸び入り、あらぬ痛みや孤独を連れてくる。それでも、一輪の可憐な花が咲くように、それを誰かに見てほしいと思ってしまうところに、慕情の苦しみがある。

 

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【京都・貴船


 人を想うことは苦しい。多くの場合、人を想うことは「徒労」に終わる。慕情を大切に育てたとしても、その人が受け取ってくれなければ、自らの手で摘み取るしかない。水をやり、肥料をやり、雨風から守り、いつかその人に見てほしいと思っても、必ずしも相手にとってありがたいものではなく、時に「有難迷惑」でさえあるかもしれない。努力が報われないこと以上に、慕情がめぐり合うことはそうはない。慕情は人の心の奥深く、見えないところで育つ繊細な植物であるから、人知れず消えるものの方が多いだろう。

 

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【京都・長楽寺】


 行き場を失った慕情は、土に還る――しかし、姿形は見えなくなるけれども、慕情は消えるわけではない。たとえ無下になったとしても、慕情は根を這わせた、その人自身へと還る。そして、前より少しだけ柔らかくなった土に、またいずれ次の慕情が宿るだろう。相手に届くかはわからないけれども、自ら育てた大切な慕情は、その土の豊かな養分となり、そこに、きっとまた新しい「種」が落とされる日が来る。

 

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【京都・貴船神社


 慕情に、誰かの影をみることがある。それは、人の心の中にも小さな輪廻の輪があることの証左である。「種」から小さな想いが芽生えたとき、傷つく恐れからそれを摘み取るのではなく、傷つきつつも人を想えと、どこからともない土の声を聴く。

過ぎ去った人

 ひとり旅をしていると、いなくなった人たちのことばかり浮かぶ。知らない街のバスや電車に揺られているとき、宿で寝る前に今日あったことを文章にまとめているとき――ひとりでいると、もう自分のもとにはいない人のことを考える。

 

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京都・鞍馬寺

 

 自分から距離を置いた人もいるし、逆の場合ももちろんあるけれど、いなくなった人のことを思う度に考えるのは、「この世にいない人と、連絡がつかない人の区別はどこにあるのだろう」ということ。これだけ通信機器が発達した世の中になれば、旧友といっても連絡を取ることは容易で、LINEひとつ送れば、気軽に相手と連絡がついてしまう。じゃあ、「連絡を取ろうと思ったときに取れる」のならば、「連絡が取れないのは連絡を取る意思のないことの現われ」なのでは・・・・・・?

 

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京都・出町柳駅付近のゲストハウスにて

 そう考えたとき、「連絡を取れないこと」は限りなく関係性が死滅した状態に近い。相手の意思なしには、もう僕はその人に会うことができない。そして、逆も然り。関係が切れてしまえば、なんだかもう生きているのか死んでいるのかもわからなくて、ふと街でその人に会ったときに「生きてたんだ」と思うこともある。ふと街角ですれ違う可能性が残されていることが、死んだ人と連絡が取れなくなった人の違いかもしれないが、それ以外に明確な違いってあるんだろうか。

 

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京都・長楽寺

 

 今ある人との関係を全力で大切にしようと思う――思うけれども、実際にはふと冗談のつもりでいったことが相手を傷つけていたり、よかれと思ってしたことが裏目に出たり、上手くいかない。ひとに優しくしているつもりでも、その人にとっては有難迷惑だったりする場合もある。じゃあ優しさとか、誠実さってなんだろうと考え出すと、ふらりと旅に出たくなる(実際は旅に出る暇なんてない)。

 

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近鉄奈良駅前の夕景

 

 それでも、「どうしたらあの人を失わないで済んだのだろう」と考えて、こうだろうか、ああだろうかと思いをめぐらせ、その都度試行錯誤していくしかないんだろう。失うときには失ってしまうのだから、その分、今手の中に残されたものを大切に育てていくしかない。寂しさや後悔を肥やしにして、優しさを育てていくのだ。迷いつつ、効率もきっと悪いが、きっとそれだけなんだろうと、帰りの新幹線で思うのだった。

 

 

無理はせずに

 努力すればするほど成功する確率が上がっていく――これはおおよそ正解だと思うけれど、おそらく真実ではない。たとえばすでに一定の水準のようなものがあって、自分の努力はそれを超えているか否かで成功/失敗が決まる――これを「水準モデル」と名付けたとき、この考えは努力の本質を得ているだろうか。成功すればいいが、もしその人が失敗したとき、「自分の努力には何が足りなかったのだろう」と思い悩むことだろう。

 失敗の原因を「水準モデル」で分析したとき、すべての失敗は「努力不足」という結論に落ち着く。「もっと効率的な努力ができたのでは」とか、「もっと良い選択なあったのではないか」と思い悩む。たしかに「水準モデル」は自己改善には役立つことは間違いない(自分の至らない点を全く振り返らず、同じ失敗を繰り返すよりはマシだ)が、時に自分の何がいけなかったのかがわからず、終わりのない自己嫌悪に苛まれることもあるだろう(僕はそのタイプである)。「水準モデル」は自己改善のための反省を促しやすい反面、明確な敗因を見つけられない場合は「反省」を終えることができない。そうなると、終わりのない精神上の袋小路に迷い込むことになる。

 

 思考とは手段である。だからその方法ごとに、本来は長所があり、短所があって然るべきである。しかし、形がないだけに選択的に選びとることができず、気がつかないまま「ある一定の思考」を植え付けられていることも多い。思考とは必ずしも属人的なものではない。場面に応じてある程度は使い分けることができ、意識的に選択可能なものだ。

「水準モデル」の根拠は、「努力万能論」である。すなわち、「正しい努力は、常に人を成功に導く」という論理が「水準モデル」の裏にはある。「水準モデル」では、自らに降りかかった不運は敗因にならない。なぜなら、「運も実力のうち」だから。

 しかし、世の中にはどうにも努力でひっくり返らないことがあるのも事実であり、努力しても無駄な場合というのは、現実に数多く存在する。たとえば恋愛を考えてみよう。いくら自分がおしゃれをし、整形をし、あらゆる努力を尽くしたところで、相手が「私」を気に入らなければ、すべての努力は無駄ではなかろうか。相手が「私」を気に入らない理由――すなわち敗因を考えたところで、何か生産的な解答をそこから得られるだろうか? おそらくそこには、相手が「私」を気に入らなかったということ以上の敗因はないはずだ。そのような現実を前に、人は「ま、いっか」と開き直るほかはない。

 ならば最初から無駄な努力せずに、ありのままの自分を認めてくれる人を待つか? それも否である(誰も彼もありのままの自分が素晴らしいのなら、最初から悩む人はいない)。程よく相手に気に入られる努力をしつつ、それでも相手に気に入られなければ「縁がなかった」のである。それが努力次第でどうにかなったのかどうかは、誰にもわからないことだ。

 

 努力しても報われなかったときは、次に同じチャンスが来たとき、決してそのチャンスを無下にしないよう、自己研鑽に努めるしかない。同じチャンスが来たとき失敗しないとも限らないし、もはや同じチャンスが来ないかもしれない。しかし現実に不満がある限りは、また同じチャンスが来ることを信じて努力するしかないのである。失敗したことを恥じ入りながら、それでも前を向くしかない。きっとこれからも同じような失敗を繰り返し、その度に努力の意味に迷うだろう。それでも、努力しなければ今よりよい現実はやってこない。

 報われるかどうかわからないけれども、祈るように努力する。成功したとしても、思い描いたような現実がやってくるかはわからない。「水準モデル」をひっさげて終わりなき自己改善に努めるか、ここで「ま、いっか」と諦めるか――どちらが賢いかはわからないが、いまよりマシな現実がいつかはやってくるのだと信じて日々を過ごす方がよっぽど楽しいのではないか? 己の至らなさを目の当たりにして凹んだあと、気まぐれに「次は頑張るぞ」とカラ元気を振りまいてみたり、かと思えば凹みすぎて体調を崩して眠れなくなったり――でも、それが一番真っ当な気もする。

 思い悩みすぎてはいけない。しかし、反省しないのもいけない。要はバランスであり、各々の思考を使い分ける必要がある。たとえそれで迷うことがあっても、悩みすぎて何もできなくなったり、逆に反省を忘れ、傲慢になっていくのも間違いだろう。時に反省し、時に開き直り、向こうから成功がやってくるのを待つ――そうして待つ時間を、楽しくすごせればよいと思う。

 

「対話」を仕掛ける人

 対話になっているようで、なっていない「対話」がある。場に意見を出すことが双方に開かれていると見せかけて、実際はそうなっていない「対話」がある。

 人が自分の意見を伝えようとするには、それが受け入れられる余地がなければならない。自分の意見が伝わらないことが明白ならば、何も言わない方がマシだから、気の小さい人ほど「対話」を拒否する。「対話」を仕掛ける人間は、それを「逃げ」とか「話さないとわからない」などとまくしたてて、一方的に自分の意見をぶつける。

 このような「対話」においては、常にひとの上げ足を取るのが上手い方が勝つ。頭の回転が速く、「発話」の上での矛盾点を指摘するだけで、抽象的な議論を繰り返し、相手が折れるのを待つのだ。

 

 このような「対話」は対話ではない。暴力である。相手にとって、自分が間違っているように感じる状況を作りだす。「対話」を仕掛ける人は、相手が対話する余地を巧妙に奪う。生まれや育ちとか考え方などの属人的な要素を批判し、相手が折れるのを待つ。それが、「対話を仕掛ける人」の特徴である。

 真の暴力は、相手の自尊心を傷つけ、孤立させることを目的とする。時に「対話を仕掛ける人」は時に自らの過失を部分的に認めるなどして、自分があたかも理知的な人間であるようにふるまう。しかし、最終的に自分が正しいという居所を変えようとはしない。そのような、自分が変わっていこうとする気概が伴わない「対話」は、「対話の名を冠した押し付け」である。

 

 対話は、双方が自己批判精神を持っていなければ成り立たないものである。相手と共に、よりよい環境や状況を作っていこうとする姿勢――協同なしには、対話は成り立たない。「人間は不完全な存在であること」、「この世に絶対的な心理はないこと」。この二点を抜きにしては、対話は成り立たない。健全な対話には、勝ち負けや優劣はつかない。

 もし「対話」に出会ったら、相手の主張を吟味し、自らの改善につながる部分を抽出するだけで十分である。結局立派なことを言う者よりも、地道な改善を続け、よい仕事や成果を出した者が最終的には勝つのだ。

ゆとりについて

 世間一般にいえば、私はいわゆる「ゆとり教育」を受けた者のひとりであるが、自分の学校生活を思い返してみたとき、はたして日々に「ゆとり」があったのかどうかは疑問である。むしろ日々は雑事に満ち溢れており、塾にいったり部活動をしたりと、何かと忙しいものであった。自分自身が日々やるべきことに対して、最大の効率性をもって臨んでいたかと言われると微妙だが、少なくとも周りを見ても、やるべきことをサボっている者以外は何かと忙しく日々を過ごしていたように思う。人が何をもって「ゆとり教育」と言っているのかどうかは謎だが、少なくとも僕は高校受験の段階で台形の面積の求め方も、イオンの考えも塾で習った。

 

 一時、「ゆとりですがなにか?」というドラマが注目を浴び、「ゆとり」という言葉が大きく取り上げられた。ゆとり教育とは学校教育における土曜授業の廃止や、授業内容の一部削減というニュアンスで世間に広まっているが、実際「ゆとり教育」を受けた自分たちに「ゆとり」はあったのだろうか。

 少なくとも小学生までは、学習や制度の面で遊ぶ時間や習い事をする時間が確保され、その点では「ゆとり」があったといえるかもしれない。しかし、中には塾に通う生徒もおり、中学校の授業内容を見据えた勉強を小学校高学年からやっている生徒もいた。中学生になると部活や勉強で忙しくなり、「ゆとり」などとはもはや無縁であった。むしろ、生活に存在する隙間は「将来有益に作用するであろう何事かをして埋めなくてはならない」というような考えが、自身にはあったと思う。「周りのやつらは着実に次のステップに向けて進んでいる。だから自分も頑張らなくてはならない」というような考えに突き動かされ、「ゆとり」などには縁がない中高生時代であった。

 

 思うのだが、「円周率を3で教える」とか「授業週休二日制の導入」で、人の人格がどれほど変わるというのだろう。むしろ、「ゆとり教育」を受けた者が何らかの特徴を備えているとしたら、大学全入時代の到来と、それによる受験戦争・塾ビジネスの拡大による作用が大きいと思われる。つまり、フーコーのいうところの「権力の内在化」が「受験至上主義」によって進み、より「従順で優しい、欲のない人間を生んだ」という論理の方が、少なくとも自分なりにはしっくりくるのである。要するに、「従順で優しい若者」が増えたのは、「ひとのいう事に従って頑張らないと、いずれ自分は失敗する」という強迫観念(=「未来至上主義」)を10代の間持ち続けたからこそ、「従順な若者」が量産されたといいたいのである。仮にもし「従順で優しい若者」が持つ傾向として「決断力がない」「自立心がない」「叱られるとすぐへこむ」のような事項があげられるとすれば、既にこれらの若者は「未来至上主義」によって「失敗しないように人のいうことを聞いておく」とか、「既に人にいわれたこと・後々人に言われそうなことを先んじて実践するようプログラムされているので、相対的に叱られた経験が少ない」ととらえることができないだろうか。少なくとも現代の若者が「従順で優しい」と仮定した上での議論にはなるが、こうした傾向を安易に「ゆとり」と結びつけるのは早計である。若者に対するレッテル貼りはいつの時代も行われているが、今回はたまたま「ゆとり」という「わかりやすそうな語句」と結びついただけで、実際は「権力の内在化がより進行した」ことに注目しなくてはならない。

 

ゆとり教育の犠牲者」といわれる若者も、自分たちがもつ傾向や性向を時代状況に照らして、ちゃんと考えなくてはならない。安易な結び付けに基づいた情報をあたかも真実のように受け取ることは、翻って自らも安易な結び付けによって、誤った他者判断することになる。自分と違う異質なものについて短絡的な判断を行えば、解決すべき多くの問題を看過し、社会の悪しき慣行が次の世代にも再生産されることになるのである。

 一般的で、わかりやすい判断に対して、適切な疑問を抱かなければならない。そして、なるべく自分の言葉で異質なものと向かい合うことが、今後ますます必要となるのではないか。

他者と自己への意識について

 人に今以上の労力を出させようとする文句――たとえば、「俺が若い頃は~」等の若手をたしなめる文言――が横行し、正当的な効力を持つような場においては、下手をすると過剰なほどに人的労力の拠出を要請し、電通の自殺事件のような労働問題に発展する。管理の厳重化や抜き打ち監査でどうなるというわけではなく、一番の問題はそのような文句がまかり通る場が放置され、また働いている従業員に内在していることである。よって、究極的に労働問題を解決するためには、そもそも個人が意識の面から変わらなくてはならない。

 人が拠出できる労働力には、当然ながら限界がある。そして、その限界は人によってまちまちであり、さらに日によってその限界は増減する。体調的な問題もあれば、精神的な問題によって、人がその時に拠出できる最大労働量は変化する。問題は、常に他者に最大労働量の拠出を求めることに存しており、翻って常に社会に最大労働量を求める消費者にも存しているといえる。

 他者は完全に理解しえない存在である一方、自己は自己の最大の観察者である。しかし、「わかった気で」他者に接してしまう厚かましさや自己を省みる意識の流れのないところに、現今の非効率性が存在している。自分と他者は同じような存在で、自分と同じような考えを持たせれば、自分と同じように他人も動くと思う傲慢さから、社会の不利益が生まれ、息苦しさや閉塞感が増していく。

 特に自己に向けるべき言説を、他者に向けたときに、多くの問題は発生する。つまり、自己統治の原則を、他者統治にそのまま使っていることが問題である。しかしながら、今後自分がそのような傲慢さにかまけ、誰かを知らないうちに犯していくとも限らない。よって、統治に関わる規則を以下のように定める。

 

一般規則

他者に向けるべき規則。人には原則として好意的に接する。過失責任は重度でない限り、自己限界の原則に基づいて、不問とする。

自己規則

自己に向けるべき規則。自己は厳しく統制し、絶えず批判の内にさらす。困難に遭った場合は基本的に自己解決を試み、それが不可能になった場合(あるいは不可能が予測される場合)は、すみやかに人にわかる形式で助けを請う。過失責任は自己の認識不足・行動不足にあり、絶えず自己開示と情報収集に努める。

 

・一般規則と自己規則

 一般規則は自己以外の他者に一般的に適応される規則であり、自己における他者統治に関わるルールである。対して自己規則は、自己に対して適応される規則であり、自己における自己統治に関わるルールである。

 両者の領分が混濁し、入り混じるところに怠惰や不信が発生する。生活の上では両者を注意深く峻別し、適当な他者統治、自己統治に努めなければならない。

 

自己限界の原則について

 自分の認識には限界があり、すべてを知ることはできないとの原則を定める。他者のことをすべて理解することはできず、背後にある心理的事情に立ち入るべきではない。他者の心理的事情は原則として善性に基づいて推定し、その悪意を疑うべきでない。

※金銭取引等、契約の発生する場合においては、この限りではない。

自己の目撃者

 自分は自分の最良の理解者とは限らないが、少なくとも最大の目撃者ではある。自分は「自分」という人間の中から、終止「自分」という人間を見ている。観察している。生まれたときから「自分」の運営を義務付けられ、なぜだか今日まで行きながらえている。稀有なことである。人は自分のことがわからないという。僕も自分のことがわからない。自分は「自分」のことをよくしらないのに、他人のことをわかったつもりになるのは傲慢である。いや、人間というものをわかった気になることほど、傲慢なことはない。人は死んだときに人間としての存在が確定するならば、人類も死んだときに人類となるのだろうか。裏を返せば、人というものはアイデンティティで縛られてはいるものの、死ぬまで変容し続け、成長もするし、退化もする生き物なのだろう。大学の友人が昔いった、「人に飽きるというのは最大の失礼」というのは、実に言い得て妙である。

 

 

 いつか、そのような変容を続けていれば、僕たちはいつか頭の中で思い描いたような「すべてが報われる瞬間」と出会えるだろうか。新海誠の最新作「君の名は」は、三葉を理想の女性として、「ユートピア」的なものを求め続ける主人公・滝の雄姿を描くものだった。途中、三葉と滝が互いに恋愛感情を抱くプロセスが省略されていたり、設定にいささか突飛な部分があったりと、諸手を挙げて好きとはいえない作品だが、そのコンセプト自体は非常に価値あるものだと思う。芸術がある種ユートピアを描くのは昔からの伝統だが、ユートピアを探し求め、そして中間項を省略する形式でいささか不合理な部分があっても、ユートピアにたどり着く主人公や周囲の人々を描くのは、いささか「祈り」にも似た光景である。ユートピアの獲得までの過程が不合理な説明や情景で描かれるのは、現代人が合理性や効率性、首尾一貫性というものに飽き飽きしている証拠ではなかろうか。

 

 僕たちは、いつか自分の理想が叶う、まさに「ハレ」の日を目指して、平凡で何事もない「ケ」の日々を生き続けている。その道のりはとても遠く、本当にユートピアが存在するのか疑わしくなって、なけなしのアルコールや愚痴に不満のはけ口を見いだして、あるいはネットメディアの刺激的な記事(すこし古いが、ベッキー不倫騒動の川谷絵音の血祭りなどはその典型だろうか)や、週に何回かのアニメを「精神的寄港地」として、資本主義の末期症状を呈する社会の中で生きている。最近、「第四次産業」としてのIoT技術や行政の36協定の見直しなど、各所で少しでも症状の緩和を目指そうという動きがあるが、事態の解決はもっと先というか、たぶんどこまでいっても人は便利さを求めるだろうし、戦後以来積み上げてきた社会の負債は、僕たちが生きている間には解決しないだろう。とすると、僕たちの骨折りは結局自分たちのためではなく、僕たちの息子の世代、あるいはその孫よりずっと後の世代になるのだろうが、自分たちに利益がない以上、果たして努力する意味がどれほどあるのだろうか。「我が亡き後に洪水よ来たれ」とは、フランス王ルイ15世の愛人であったポンパドゥール侯爵夫人の言葉であるが、これほど現代の自分たちの心理に当てはまるものはないのではないか。自分たちにメリットがない以上、社会改善の努力する意味はないなどといった、「極度の効率的思考」は、返って人間社会の緩やかな壊死を招くだろう。社会のための効率主義が、かえって自らを殺していくのはなんとも皮肉である。もはや、善行をなすための教義は「慈善」といったような非合理の側にあり、社会的壊死は、そのような非合理的行動でしか守られないのかもしれない。

 

 合理的に非合理的行動を進める教義がない。全員が全員、自分を守ることで手一杯なのだ。その中で、敢えて「君の名」を呼び続ける姿を描くというコンセプトは、半ば「祈り」にも似たものではないだろうか。