言の笹舟

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

ギャップイヤーノート

 「大学は卒業するけれども、就職はしない」というと、人は二通りの反応をすることが最近分かった。一つは、キョトンとした表情をして、「何やってんだこいつは」ばりに僕を見る人、もう一つは「自分にはそれができないからうらやましい」という反応である。

 

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かく言う僕はどんな日々を送っているかというと、本を読みつつ時たま思いついたように文章やらブログやらを書き、アニメを観、バイトに行き・・・などと言う生活を送っている。余談ではあるが、ラブライブのかよちんがかわいい。かよちんのかわいさは、僕が何万も駄弁を垂れるより、真っ先に世界平和に繋がると思う。ちなみにもう一つ言わせていただければ、凛ちゃんもかわいく、駄々をこねてさらにもう一つ言わせてもらえれば、μ’sの面々全員がかわいいということになる。これは仕方のないことである。

 

ギャップイヤーについてちゃんと理由を話すと、キョトンとしていた人も僕の考えに納得してくれる人が多い。これまでに僕が集めてきた非常に統計的に偏りがあるデータによれば、同年代はまずほぼ間違いなく同意してくれ、親の世代やそれ以上になるほど理解を得るのが難しくなる。

 

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 先の文章で少しだけ僕の生活の実態に触れたが、四六時中何者かに責められているような感覚を持つことも確かである。森実登美彦氏が書いた「太陽の塔」に登場する「邪眼」のように、それはときにあらぬところから自分を射抜き、責めたててくる。「しぼんだ時は、誰かが空気を入れてくれるから」という自殺予防のポスターが前に駅に貼られているのを見たが、しぼんだ自分に空気を入れるのは結局のところ、あくまで自分である。自分を終始自分自身の中に閉じ込めていく人に、右肩下がりの人生を上向きに引き上げてくれるほどの力を持った奇跡は訪れない。

 

 「自助努力」。その言葉が虚しく宙に響く。「邪眼」が登場したときの6畳間は、まるで拷問部屋のようである。自らレールを外れ、自分のやりたいことに向かう道は確かに行動力があり、勇ましく、尊厳に満ちているように思える。しかし、その内情は常に自身の怠惰との戦いであり、失敗の連続であり、鉛のように重い腰を上げる動作の連続である。絶望する理由は五万とあるが、希望を信じ続けるに足る理由は数える程もなく、しかも。やりたいことというのはいわば十字架のようなものであり、できれば路肩に打ち捨てていきたい類のものである。レールから外れた道に進み、成功した人の言説が世の中に跋扈しているが、事実、その華々しい金字塔の根本には、死屍累々たる敗北の山が存在することを忘れてはならない。

 

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決して行動力があるわけではない。せっぱ詰って叫んだ結果の選択であったように思う。社会の中に既に存在する文脈に自分のやりたいことを重ね合わせ、そこで頑張ろうとすることの方も申し分ないくらいに素晴らしいし、そちらの方が良いとも思う。でも、周りに気を取られていい加減に自分のやりたいことをこさえたり、十分な試行錯誤もないままに決断を下し、その環境に怠惰から居ついてしまうのは避けるべきだとも思う。結局何が正解かはわからないのだけれど、よれよれのリクルートスーツを着て数か月間でも都内を駆け回ったことから得た教示は、いつかは必ず自分の生きる場所を据え、選択をしなくてはならないということだった。一つの決断や選択から、自分の人生は無限にも分化していくような錯覚を覚えるが、切り捨てるべきものを切り捨てていかなければ、いつまでも末広がりのまま、それこそ死ぬまでの暇つぶしとしての人生しか送れないような気がした。それにはある一定の試行錯誤による仮説検証が必要で、そのために他人と違うリズムで動くことも、時には必要なのではないかと思う。

 

流浪豚 ~マカオ編~

 2012年7月。「自分がかつて学んだ塾で教鞭をとる」という中学校以来の夢に破れた自分は一人、行くあてもなく部屋でゴロゴロする日々を送っていた。僕は精神的退廃のあまり、扇風機に向かってアホ面で「ア~」と言い、キャッキャウフフを一人で繰り広げる閉鎖病棟顔負けの廃人と化していた。八国山緑地を走り回ったり、井之頭公園に行ってバカップル見物をして勝手に汗をかいて苦しんでいるうちに、「お前、これはさすがに腐れ大学生と言えどアカン」と、わずかながらの良心が警鐘をならすのであった。

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 気がつくと僕はマカオにいた。いや、順を追って説明すると、貯まった貯金を使い果たして海外に行き、何やら刺激を受ければ、何やらいいことが起こるかもしれないという極めて安直な理由から、僕はパスポートを取りにいった。さらに、ヨーロッパに行きたいと目論んでいた僕は、当初ヴェネツィアなどを周遊しようと考えていたのであるが、あまりに旅費が高すぎたために、なぜか「ヨーロッパのどっかの植民地だったところに行こう」という発想に至った。付け加えて、社会学かぶれだった僕は「日本と言う文化圏をまるっきり切り離して海外に行ったらどうなるんだろう」という着想を得、携帯の海外ローミングサービスを使わず、まったく携帯が使えない状態で成田空港からマカオへと飛び立った。

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 正気に戻ったころには既に遅かった。タクシーのおっちゃんに「ここに行ってくれ」と地図を見せて頼んだものの、老眼で地図が見えなかったらしく、苦笑いをされて終わった。たどたどしく英語で説明するも、マカオは広東語圏であるため、英語も通じない。仕方なく、ホテルから少し距離のあるマカオの中心地だった「セナド広場」になんとか降ろしてもらうことに成功した。地図を頼りに歩くも気が付くと海についており、そのまま迷い続けて2時間が経った。時折黒塗りの車が走り去るのを見て、「俺はマカオで博打売ってるギャングに拉致られ、南シナ海に沈められるのではないか」という虚妄が膨れ上がり、「絶対負けねぇ」などとブツブツ言いながら、半ベソでマカオの街を歩いていた。グランドリスボアの蓮の形をしたビルを目印に正しい道を見つけ、なんとかホテルにたどり着いたころには2時間が経過していた。ホテルの近くにあったゼブンでスミノフやらビールやらと適当な菓子を買い、ホテルでべろんべろんに酔っ払った。気が付くと、僕はダブルベッドの上で飛び跳ねている内に寝ていた。注意しておくが、ダブルベッドといっても一人であることに留意されたい。

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 翌日、マカオの世界遺産めぐりをした。セナド広場や友誼大馬路という大通りを中心として、歩ける場所が次第に増えていった。同時に、どこの通りがどこに繋がっているか、どの方向に行くとセナド広場かということがわかるようになった。マカオはかつてポルトガルに占領されていた場所で、観光地化された場所はヨーロッパ、それ以外の場所は中国というような街の作りをしていた。ビルにはフジツボのように室外機が取り付けられ、時折室外機の水が垂れてきた。7パタカ(70円)のエッグタルトは美味しく、水を得た魚のようにマカオの街を駆け巡った。

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 日本だと知らない土地に行く際にいつもGoogleマップを利用するのであるが、GPSを切って異国の地で自分を追い込みに行ったのは良かったと思う。自分が通った場所から枝葉が伸びるように、知らない場所が知っている場所になっていくという過程は非常に面白いものである。ぜひ一度、異国の地で自分を追い込んでみることをお勧めする。案外人間はどこでも生きていけるものだなあと、短い滞在ながらに思った次第である。

雨降り中華街

 初めて大学の授業を受けたときのことを今でも覚えている。春特有のしっとりとした雨が降っていて、時折南風が湿った空気を運んでくる。桜はもうすでに散り始めていて、下の方の花の間から萌黄色の葉が覗いている。大学がもうすぐ終わるという時期に際して様々なことを思い返すと、社会学との出会いはかなり象徴的だったと言わざるを得ない。

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 その授業は「インド洋のマグロ」の話から始まった。その先生と会うのは初めてだったが、「こいつはヤバい」と直感的に思った。話が終始抽象的であったがそれとなく理解でき、例えば太宰治村上春樹の文体に呼び起こされる感情に特徴付けられるような「抽象的なこと言ってるけど俺はちゃんと分かってるぜ」的な独特の優越感やら、興奮を覚えさせるものであった。自己紹介シートを配られ、「なぜ君は社会学を学ぶのか」というこれまた抽象的な欄が、あたかも僕のためと言わんばかりに用意されていたので、高校時代(特に暗黒の受験期)に覚えた社会への疑問やら、東日本大震災に関する鬱々とした想いを書き殴った。教授は何やら僕にアウトサイダー的な何かを感じたようで、次の時間になると「いやー、君の名前はすぐに覚えちゃったよー」などと言い出すので、その瞬間に僕は何やらこれまでの人生になかった素敵な何かが始まる予感を禁じ得なかった。

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 数か月後。真夜中。生徒が帰った後の塾で、僕は一向に集団授業が面白くならないという理由から、「一発芸研修」なるものをやらされていた。元来僕はそういうのが特に不得手であり、「何か面白いことをやって」だのを言われると途端に身体が委縮してしまうのだった。校長、そして大学生のアルバイトの先生にじっと見られながら時間が過ぎた。青白い害虫灯が大きな虫を捕えて、バチッという炸裂音を鳴らす。夏の夜の蒸し暑い空気が、インナーをぐちゃぐちゃに湿らせる。見事なまでに、最低最悪の日々の中に僕はいた。僕はただ単に、春風に吹かれて舞い上がっていたのではないか。やっとの想いで解放されて後、午前1時の駅前の駐輪場には、真っ暗な夜の帳が降りていた。

 

 頑張り続けていれば、いつか状況は好転するだろう。そう思って、1年が経った。何を食べても味がせず、いつも霞がかかったように意識ははっきりとしなかった。一番辛かったのは自分の身体が本当に汚く思え、自分から抜け落ちた髪、脱いだ服さえ、道端に落ちた犬のフンのように汚く思えることであった。 まるで、下水の底に住まうような日々であった。

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 大学2年生のときに、池袋駅北口の中華街にフィールドワークに入った。5月のGW、ひとしきり雨の降る日であった。池袋に中華街があったことを微塵も知らなかった僕は、北口を出てからの煌々と光る中国雑貨屋に度胆を抜かれた。日本の街の隙間隙間に、全く違う文脈が流れていて、僕は畏れ多くもわくわくしながら街を歩いた。気が付いたら僕は、ビンの中に木の根っこがプカプカ浮いているという怪しげな風貌をした「高麗人参ドリンク」なるものを購入していた。案の定、すこぶるおいしくなかった。

 

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 誰にでも出会ってしまうリスクのあるものとして、「誰かの意図しない暴力」というものがある。それらは正義や指導、道徳や常識という形で人に入り込んでいくわけだが、最も、それらが一番厄介なのは、それらの行為は自分たちの客我に働きかけてくるからである。行為によって発生する過度な苦しみは、いつも風通しの悪い場所で起きる。もちろん、多少の痛みは前進のために必要なのだけれど、人を蝕み、生活さえも浸食するほどの苦しみは、いつも比較的狭い空間で起こる。自己評価が極端に低くなると、自分の見ているものや行動の範囲が狭くなるもの一つの原因かもしれない。

 

 自分の状況が切迫してくると、目の前のことしか見えなくなって、つい自分の人生が手詰まりに思えたり、時には終わりのように思えたりする。しかし、知っているつもりの街をよくよく歩いてみると、知らない場所やモノに不意に出会ったりする。ふと拍子抜けした気分になって、ひとしきりの悶着を経た後に僕はそのアルバイトを辞めたわけだが、思ったより自分の見ている世界は狭くて、実際に色々くまなく、目を凝らして見てみれば、もしかしたら自分の場所もどこかにあるのではないかと思う。

 

 とまあ、周りの大学生が旅行やらなにやら行っている間に、色々やらなくてはならなくて悶々としている今の自分へ、少し喝を送ってみる。

緊張しない方法

僕は幼少期、よくゲロを吐く子どもだったという。三つ子の魂百までというが、それは精神論のみならず、身体にも言えることである、というのが僕の中での見解であり、その理由としては、今でも僕は一定の状況に陥ると今でも吐き戻すという体質をずっと抱え続けてきたからである。

 

一定の状況とは何か。「緊張」である。

 

胃の弁の働きが弱いとか、そういった御託はいくらでも並べることができる。しかし、人間は自ら言葉を織り、自己を乗り越えていかねばならぬ。そう思い立ち、一心に僕が昔書いた文章があるので参照されたい。「緊張すると吐いてしまう」という悩みを抱えている人には必見である。嘘である。まあ、目を通していただければありがたいというくらいである。

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「緊張しない方法について」

 

心理カウンセラーの井上氏によれば、緊張しない方法としては7つあり、その1つに「緊張している自分に気づくこと」というものがある。例えば「呼吸」「身体の状況」に着目し、今自分の置かれた状況、具体的には「自分が緊張していること」を客観的に認識するというものである。以下、私が行ってきた自己認知を用いた「緊張しない方法」を紹介したいと思うが、同じ方法を試そうとすれば必ず気持ち悪くなり、「酸っぱい」思いをすることをあらかじめ付言しておく。

 

私はこれまで、高校の学校説明会の場や大学のゼミ研究発表の時によく登壇し、大勢の人の前で喋るという機会をもらうことが多かった。人前で話す機会が多いのであまり周りの人に気づかれないが、私は小心者である。何かことを成そうとするとき、私は成功するか否かを気に病んで決まって緊張し、朝食べたご飯を戻すのである。昔から大勢の前に出る時は顔面蒼白になり、しまいには気持ち悪くなってえずきだし、「大丈夫?体調悪い?」と周りの人に心配されるのが常であった。にもかかわらず、人当たりの良さなのか、真面目に学業や仕事に打ち込む自分を買ってなのか、私はよく人前に出なければならない立場に持ち上げられ、その度に自らの胃酸の味に苦しむのだった。

 

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私はこのような機会を嫌々ながら何回か経験し、その度に私の胃酸は決まって緊張に呼応して戻ってくるのであった。幾度の戦いを経て、ついに私は「口の中まで戻ってきた吐しゃ物をもう一度飲みこむ」という、いなし技を会得するに至った。私は自らの秘めたるこの技術を、極めて個人的に「反芻」と呼んでいる。反芻とは、牛などの草食動物が食べた植物を確実に消化するために飲みこんだ食物をもう一度口へと戻して咀嚼するという消化行動の一種である。無論、私の朝食は草などではなく一般的な食事であるが、一度食べたものが口に戻り、再び消化器官へと戻っていく様が一致していることから、牛に畏れ多くも私はこの「反芻」という言葉を用いている。緊張に負けて吐くことは私のプライドが許さなかったのである。周りの人に弱々しい姿を見せるわけにはいかない。私の「反芻」は、そのような小さなプライドの拙い帰結点であった。

 

様々なスピーチを請け負う度に、決まって私の胃酸は暴動を起こした。その度に私は「反芻」し、自らの胃酸を封じ込めるのであった。場数を踏んでも、一向に私の「反芻」は治らなかった。高校生のとき、文化祭実行委員長として学校説明会で200人の保護者・受験生を前にスピーチをする機会があり、その時に自分史上特大級の「胃酸反乱」が起きた。緊張に呼応して私の中の胃酸は暴れまわり、自由と権利と活路を求めて口へと迫ってきた。私は何とか鍛え上げた「反芻」の技術力を生かして胃酸の反乱を鎮圧した。しかし自由を求めて暴徒化した民衆と同じで、我が荒れ狂う胃酸はすぐに第二陣を仕掛けてくるように思われた。私は自分のメンタルと消化器官の弱さに辟易しながら、食道を吐しゃ物が行きつ戻りつする感覚の中で、ふと高校生物の授業でやった「生物の消化」の担当教員の話を思い出した。

 

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私がお世話になった高校生物の先生は杉崎といい、授業中に「帰って寝たい」発言を連発する男性教師であった。終始間の抜けた表情で黒板の前に立ち、身体を左右にゆらゆらと動かしながら自由気ままに発言し、授業の大半を無駄話に費やすのが杉崎の授業の特徴である。私の高校は男子校ということもあって彼は下ネタを会話の随所に盛り込み、クラスの笑いをかっさらっていくことを何よりの生き甲斐としているようであった。しかし、無駄話によって授業時間を自ら大幅に削りつつも彼は限られた時間でわかりやすい板書をし、かつ授業内容を確実に終わらせていく手腕を持ち合わせていたため、杉崎は学生一同から一目置かれた教師であった。

 

「反芻っていうのはつまり、牛が草をムシャムシャ食って、一度それをオエッてして、ゲロをムシャムシャして飲みこんでいるんですねぇ・・・・・・まさに一度で二度おいしいわけですねぇ・・・・・・。」緊張してトイレにて気持ち悪さのピークを迎えたとき、杉崎が間の抜けた表情で口をもそもそ動かしている姿が脳裏に浮かんだ。私は度重なる反芻で息も絶え絶えになる中、トイレの鏡の前で杉崎の間の抜けた面と授業内容を思い出し、極度の緊張とふつふつと湧き上がってきた可笑しさで気持ち悪く笑った。「もしや、牛もこんな感じで毎回反芻しているのか・・・・・・。」牛の気分を味わった私は、その後スピーチを成功させた。それ以後も「反芻」は起きるものの、杉崎の顔と牛の気分を考えることで以前よりも安定してスピーチができるようになった。

 

なぜ私は杉崎の間の抜けた表情と牛の気分を考えることで自らの緊張を克服したのか。その時の状況を考えると、私の「反芻」は単純に「醜態を晒さない」というためだけに役立ったのではなく、緊張している自分を「吐きそう、いやもう口まで吐いてる」という身体感覚として自己認知し、さらに「杉崎の間の抜けた面を思いだす」、「牛の気分を想像する」ことによって、極度に緊張した状態から一時的に距離を置くことに一役買ったという推論が導けるように思う。おそらくこれが冒頭の「自己の客観的認知」に結びつくものであるだろう。緊張しているとき、不安に駆られているときは視野が狭くなり、自分の目の前の物事だけに集中してしまうものである。状況に飲みこまれそうなとき、一度すっと現実から遠ざかってみるのが自己の客観的認知であり、物事との適切な距離の取り方であると私は自らの「反芻」経験により学んだ。

 

無論、すべての人が緊張して吐くわけでもなければ杉崎のことを思い出すわけではない。私はたまたま緊張を解きほぐすために杉崎の間の抜けた面を思い出し、自らの吐しゃ物を飲みこんで身体レベルで牛の気持ちを考えるという一種の「型」を持っているだけで、これが万人に通用するノウハウでないことは明らかである。緊張したら手のひらに人なり牛なり字を書いて飲みこんでもいいし、聴衆を不細工な形をしたジャガイモなりタロイモだと思うのも勝手である。要は、緊張に対する自分の「型」を持つことである。場数を踏み、数々の苦い経験や失敗を反芻して、「緊張しない方法」としての自分なりの「型」ができるのだと私は思う。様々なノウハウ本が多数出版されているが、それらの方法論をそのまま踏襲するのではなく、自ら「緊張しない方法」を必要とする場に身を置き、現実の中で自分なりの方法を組み上げていくことが「緊張しない」ための最善の方法であると考える。

 

出会ってしまうオリジナリティ

 僕が小学生のときに流行っていたものと言えば、「ロックマンエグゼ」である。あの頃のロックマンエグゼブームは非常に熱狂的であり、「学校にゲームボーイを持ち込む」という禁則を破るやんちゃボウズが続出した。僕の通っていた小学校では帰りの会に「今日の良かったこと悪かったこと」というプログラムが組み込まれていたのだが、大概のボウズは気の強い女子に「悪かったこと」として告発され、クラスの前でさらし上げられるのがいつもの流れであった。しばらくすると、さらし上げられたボウズどもは徒党を組んで告発した女子を責めたてるわけであるが、最初は強気だった女子も最終的に弱腰になってついに泣き出し、取り巻きの女子が現れてボウズどもを先生に「A子ちゃんを泣かせた」とチクり、またボウズどもが先生に怒られるという、典型的な女尊男卑の社会が形成されていた。そのうち、ボウズの一人が持ってきたゲームボーイが忽然と消え、学年集会が開かれる・・・というところまでは、ほとんどの人が想像できるであろう。

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【出典:http://kakaku.com

かくいう僕は当時から流行に流されるのが嫌いなクソマセガキだったため、「ロックマンエグゼ」も「ベイブレード」もやらなかった。本当のところは喉から手のみならず、肩やらお腹やらまで出てきそうなくらい欲しかったのである。しかし、絶対やらねぇという変なプライドが僕にはあった。僕の慧眼はいち早く女尊男卑の社会構造を見抜き、気が強い女子に懐柔政策を取ることに腐心した。周りが内定式だ何だと慌ただしく盛り上がっている間に、一人相も変わらずバイトに明け暮れている今の僕は、既にその頃から形成されていたような気がしなくもない。

 

「大人だねー」だの「真面目だねー」だの、あることないことを女子から言われて承認欲求を辛うじて満たしていた僕であったが、放課後に遊ぶ男子の友達はおらず、ずっとゲームキューブスマブラばかりしていた。1日中スマブラをやり込み、イベント戦のギガクッパ軍団を真っ向勝負で打ち破った僕が得た最大の利益は、大学生の泊まり飲みにおけるスマブラ大会で負けないというものである。それだけである。ちなみに参加者は僕以外ほとんど素人である。

 

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※個人撮影

小学校の時の思い出はほとんどゲームしかない。ゲームしかしていなかった気もする。小学生ながらに、随分悶々としていたと思う。ゲームをひとしきりした後に相田みつをの詩集にハマるわけだから、余計にタチが悪いと言えるだろう。「ロックマンエグゼ」も「ベイブレード」も拒否して僕が得たものは、おそらくスマブラの技術か、「ロックマンエグゼベイブレードもやらない」という、実に陳腐なオリジナリティであった。別に後悔はしていないけれど。

 

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※個人撮影

オリジナリティ。やたら「自分の独自性を出せ」だの「自分にしかない経験を語れ」とか言われる時期があったけれど、あのときのことを思い出すと独自性って出すものだろうか・・・と、また勝手な屁理屈を並べたくなる。あるとき、大学で社会学の教授が「自分の確固たる研究テーマが早いうちから決まっているヤツは、相当な天才か、相当不幸なヤツだ」と言っていた。自分が何をしたいか決まっていることは、確かに幸せだし、見方によっては楽なのかもしれないけれど、本当にそれだけなんだろうかとも思う。やりたいことをやろうと、他人とは違う道を選択した友達にアルコールを交えながらよくよく話を聞いてみると、昔あったことを重い十字架のようにひっそりと背負っていたり、ばつが悪そうに自分のやりたいことを話したりする。

 

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※個人撮影

「私は~な人間です」とか「私は~の経験があり、・・・したいです」とか、そういう風に語られる独自性も確かに一つのオリジナリティのあり方だとは思う。でも、本当のオリジナリティってそう簡単に言い切れるものだろうかと、一緒に飲んだヤツの表情を思い出すと疑問に思ってしまう。他人と自分が違えば自然と孤独にもなるし、他人にわかってもらえないこともたくさん出てくる。オリジナリティはよく挫折や敗北と結びついていて、それらはやっぱり、胸を張ってアピールできるような代物ではない。

 

オリジナリティがないとかで悩む人もいるけど、無いなら無いなりにいいんじゃないかなぁとかぼんやり考えたりする。少なくとも、オリジナリティというのは自ら積極的に作るものではなく、出会ってしまう類のものなのかもなあと、そいつの顔を思い出す度に考える。

向こう側の人

21時の新橋をふらふらと歩く。国道の交差点の信号待ちで、ぼーっとあたりを見ながら仕事が終わった余韻に浸っていると、大手メディア企業のビルが圧倒的か高さから僕を見下ろしていることに気づいた。窓には無数の光が灯っている。ああ、中にいる人はまだ働いているんだなあとぼんやり思っていると、体調大丈夫かなあとか、家に帰れてるのかなあとかを勝手に想像して、1人沈鬱な気分になってる自分がいた。こんなことを考えても、ますます社会から取り残されるだけであるのに、あることないことを考えて、1人心象的に動けなくなってる自分がやはり腹立たたしい。

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 ※個人撮影

一時期、大学院を本格的に目指して労働関係の本を読み漁っていた時期があった。1日中大学の図書館に引きこもり、あることないこと難しいことをずっと考えてるうちに、結局様々な物事が複雑に絡み合って、何も言えない自分がいることに気がついた。自分の精神的虚弱もあるが、そのような生活を一生送り続けることに不安を感じ、またそれも辞めてしまったのであった。

 

偶然早く起きた日曜の朝にTVをつけてみると、オジチャンたちが自分の意見を言い合って、お前は何もわかってないばりの激論を飛ばしていた。お互い何をどうわかってるのかいまいち掴めなかったが、なんとなくいい気だけしないということだけは毎回思う。

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※個人撮影

例えば、「労働法をキチンと守らない企業はダメ」とか「社員を守れないブラック企業は名前を晒しあげて罰するべき」とか、色んな言説がある。僕もかつて、長時間労働だのパワハラだの、いくつか思い当たる経験をしたことがあるから、企業の体制やら採用形態に色々言いたいことはある。本格的な就業体験がない一学生の僕が、何を言ったとしても詭弁にしかならないと思うのだが。

 

大学1年生のとき、塾講師としてアルバイトをしていたのだけれど、その時の僕の生活たるや、まるで下水をすすって生きるような日々であった。そのころの詳細のことは、今となってはもはやあまり思い出せないのだけれど、もし東京のビル群の窓の明かりの下で地獄のような思いをしている人がいたら・・・と思うと、急に身体の力が抜けてくる。一方で、社員を守らなければならない経営者の人たちもいて、もはや自分に何が言えるのか、何ができるのか全くわからなくなり、途方に暮れた気分になりながら夜のSL広場をウロウロし、ふとお腹が空いて牛丼を食べたりする。

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※個人撮影

24時間空いてるファーストフード店を求め、安い牛丼をそれでも僕たちは求めてしまう。ワンオペだの、安い賃金だの、叩かれた企業があるが、本当にその状態を生み出しているのは自分たち自身なんじゃないか。それなのに、ホワイト企業に就職したいとか、なるべく自分らしく働きたいとか、能弁を垂れている自分にまた嫌気が差してしまう。僕らは被害者であると同時に、間接的に加害者となっているのではないか。最初の話に戻るが、そんなことがわかったとしても、圧倒的な現実の存在が見えるだけで、自分に何ができるでもない。

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※個人撮影

スローライフに戻ろうとか、原始的な生活に帰れとか、そんなことはとても言えないが、せめて、闇雲に安い牛丼を食ったり、店員にやたら文句をつけたりとかしないようにするためにも、もう少し仕組みの向こう側にいる人のことを考えなくてはならないのではないかと思う。

海と消えた街

僕の最初の記憶は、当時大学生だったおばちゃんと、宮城の祖母の家で遊んでいた記憶である。その次の記憶は、埼玉の幼稚園で僕がガキ大将の相撲ごっこに無理やり付き合わされ、突き飛ばされてドアに頭をぶつけて泣いた記憶である。その間には実に2年くらいのブランクがある。なぜ祖母の家で遊んだ記憶が自分が思い当たる最初の記憶なのかは今でもわからないので、多分一生わからないままなのだろう。

 

2歳のときに埼玉に来て今に至るわけなので、僕は事実上、埼玉出身となる。しかし、実に陳腐なアイデンティティなのだが、出身を聞かれたときは「宮城県生まれ埼玉県育ち」ということにしている。自分の出身を人に説明するとき、毎回少々アンビバレントな気持ちを味わうことになる。

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※個人撮影:鳥取砂丘

親の実家が宮城にあるので、1年に1回、お盆の時期に家族揃って宮城に行く。毎回僕ら一家が帰省すると海に行くのが親戚一同の恒例行事となっており、よく閖上の海岸に赴いて従兄弟と一緒に遊んだ。一度、浮き輪につかまったまま離岸流に流されて、慌てた父親が助けにきた以外はすべていい思い出である。

 

というわけで、僕の海の原体験は宮城の海にある。海水浴場の駐車場に車を停め、防砂林である松林を抜けると、防波堤の先に一面の太平洋が広がる。あまり綺麗な海とは言えなかったが、それでも海なし県に移住した僕にとって、海はやはり特別な存在だった。

 

一度、海辺の街にあった小さな食堂で、ほや貝を食べたことがあった。オバチャンとオジチャンが2人で切り盛りしていたから、きっと夫婦だったのだろうと思う。あの海辺の食堂は一体どこへ行ってしまったのだろうかと、時折ふと頭をよぎる。

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※個人撮影:松島

2011年3月11日、宮城県沿岸部を大津波が襲ったのは、未だ記憶に新しいと思う。気仙沼港の海は流れ出した油に火がつき、水面が燃えるという地獄絵図をTVが映し出していた。逃げ遅れた軽自動車は津波に飲まれ、次第に水に流されて横転した。ちょうど映し出された画面は閖上だったが、なぜか遠い世界の出来事のように感じて、まさか僕の知っている海辺の街が丸ごとなくなっていたとは思わなかった。 

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※個人撮影:宮城

震災後、宮城に行ったのは2011年5月のGWだった。重苦しい雨雲の下、海辺の街へ向かうと、途中から様子が変わった。道路と私有地を隔てる柵がひしゃげ、さらに進むと家々の土台が残っていることを除いて、一面のさら地になっていた。一箇所にまとめられた瓦礫にはカモメが群がり、一体ここはどこなのか、まったく判別がつかなかった。自分が知ってる海辺の街が、丸ごとどこかへ行ってしまったような気がした。遠い親戚が住んでいたという家に行くと、やはり住宅の基礎以外はなくなっていた。僕はやるせない気持ちのまま周りを見渡していると、砂の中に陶器のようなものがあるのに気が付いた。足で砂をどけてみると、そこにはタイルが砂に埋まっていた。

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※個人撮影:宮城(2014)

例えば、僕たちは昔住んでいた街に行くと駅前の風景や道を見て、「懐かしい」と感じる。それは、風景に自らの記憶がひっかかっていて、自ずと昔の記憶が引き出されてくるからである。しかし、本当に街が壊滅し、そのような風景が根こそぎさらわれてしまった街では、かろうじて砂の間から見えるアスファルトの道路標識や、基礎の並びから家々の配置を思い出すしかない。無論、そこで生活してない僕には、海辺の街がそっくりそのままどこかへ行ってしまったような感覚を持った。本当に何もかもを失った場合、家財を失うことに伴う苦痛は僕らにも想像できるかもしれないが、当たり前に存在した、日常の記憶のひっかかりでさえ失った人が一体どれほどの苦しみを味わったのか、僕にはまったく想像できなかった。

 

薄緑色のタイルはどこから来たのだろうか。風呂場に使われていたのかもしれない。炊事場に使われていたのかもしれない。僕とタイルの間に接点はないが、見る人が見ればそれが昔、何として存在していたかがわかるのだろう。圧倒的な隔絶を前に、僕は埼玉の人間であり、言ってしまえばただの部外者であり、所詮人の苦しみは自分が経験した程度のものしか理解しえないのだということをその時知った。しかし、この街で海の記憶を得たからには、完全なる部外者としていることもできなかった。

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※個人撮影:宮城

こんなことを考えて勝手に悔しくなっている自分が、次第にバカらしくなってくる。所詮当事者気取りかと自分に唾を吐きかけたくなったときもあったが、「あのとき」のことを祈るように考え続けることが、いつか間接的な支援になるのではないかとも勝手に思っている。具体的に実を結ぶような充実した結末が想像できなくとも、それでも何かをし続けることを求められているような気が、なんとなくする。