白豚ノート

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

緊張しない方法

僕は幼少期、よくゲロを吐く子どもだったという。三つ子の魂百までというが、それは精神論のみならず、身体にも言えることである、というのが僕の中での見解であり、その理由としては、今でも僕は一定の状況に陥ると今でも吐き戻すという体質をずっと抱え続けてきたからである。

 

一定の状況とは何か。「緊張」である。

 

胃の弁の働きが弱いとか、そういった御託はいくらでも並べることができる。しかし、人間は自ら言葉を織り、自己を乗り越えていかねばならぬ。そう思い立ち、一心に僕が昔書いた文章があるので参照されたい。「緊張すると吐いてしまう」という悩みを抱えている人には必見である。嘘である。まあ、目を通していただければありがたいというくらいである。

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「緊張しない方法について」

 

心理カウンセラーの井上氏によれば、緊張しない方法としては7つあり、その1つに「緊張している自分に気づくこと」というものがある。例えば「呼吸」「身体の状況」に着目し、今自分の置かれた状況、具体的には「自分が緊張していること」を客観的に認識するというものである。以下、私が行ってきた自己認知を用いた「緊張しない方法」を紹介したいと思うが、同じ方法を試そうとすれば必ず気持ち悪くなり、「酸っぱい」思いをすることをあらかじめ付言しておく。

 

私はこれまで、高校の学校説明会の場や大学のゼミ研究発表の時によく登壇し、大勢の人の前で喋るという機会をもらうことが多かった。人前で話す機会が多いのであまり周りの人に気づかれないが、私は小心者である。何かことを成そうとするとき、私は成功するか否かを気に病んで決まって緊張し、朝食べたご飯を戻すのである。昔から大勢の前に出る時は顔面蒼白になり、しまいには気持ち悪くなってえずきだし、「大丈夫?体調悪い?」と周りの人に心配されるのが常であった。にもかかわらず、人当たりの良さなのか、真面目に学業や仕事に打ち込む自分を買ってなのか、私はよく人前に出なければならない立場に持ち上げられ、その度に自らの胃酸の味に苦しむのだった。

 

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私はこのような機会を嫌々ながら何回か経験し、その度に私の胃酸は決まって緊張に呼応して戻ってくるのであった。幾度の戦いを経て、ついに私は「口の中まで戻ってきた吐しゃ物をもう一度飲みこむ」という、いなし技を会得するに至った。私は自らの秘めたるこの技術を、極めて個人的に「反芻」と呼んでいる。反芻とは、牛などの草食動物が食べた植物を確実に消化するために飲みこんだ食物をもう一度口へと戻して咀嚼するという消化行動の一種である。無論、私の朝食は草などではなく一般的な食事であるが、一度食べたものが口に戻り、再び消化器官へと戻っていく様が一致していることから、牛に畏れ多くも私はこの「反芻」という言葉を用いている。緊張に負けて吐くことは私のプライドが許さなかったのである。周りの人に弱々しい姿を見せるわけにはいかない。私の「反芻」は、そのような小さなプライドの拙い帰結点であった。

 

様々なスピーチを請け負う度に、決まって私の胃酸は暴動を起こした。その度に私は「反芻」し、自らの胃酸を封じ込めるのであった。場数を踏んでも、一向に私の「反芻」は治らなかった。高校生のとき、文化祭実行委員長として学校説明会で200人の保護者・受験生を前にスピーチをする機会があり、その時に自分史上特大級の「胃酸反乱」が起きた。緊張に呼応して私の中の胃酸は暴れまわり、自由と権利と活路を求めて口へと迫ってきた。私は何とか鍛え上げた「反芻」の技術力を生かして胃酸の反乱を鎮圧した。しかし自由を求めて暴徒化した民衆と同じで、我が荒れ狂う胃酸はすぐに第二陣を仕掛けてくるように思われた。私は自分のメンタルと消化器官の弱さに辟易しながら、食道を吐しゃ物が行きつ戻りつする感覚の中で、ふと高校生物の授業でやった「生物の消化」の担当教員の話を思い出した。

 

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私がお世話になった高校生物の先生は杉崎といい、授業中に「帰って寝たい」発言を連発する男性教師であった。終始間の抜けた表情で黒板の前に立ち、身体を左右にゆらゆらと動かしながら自由気ままに発言し、授業の大半を無駄話に費やすのが杉崎の授業の特徴である。私の高校は男子校ということもあって彼は下ネタを会話の随所に盛り込み、クラスの笑いをかっさらっていくことを何よりの生き甲斐としているようであった。しかし、無駄話によって授業時間を自ら大幅に削りつつも彼は限られた時間でわかりやすい板書をし、かつ授業内容を確実に終わらせていく手腕を持ち合わせていたため、杉崎は学生一同から一目置かれた教師であった。

 

「反芻っていうのはつまり、牛が草をムシャムシャ食って、一度それをオエッてして、ゲロをムシャムシャして飲みこんでいるんですねぇ・・・・・・まさに一度で二度おいしいわけですねぇ・・・・・・。」緊張してトイレにて気持ち悪さのピークを迎えたとき、杉崎が間の抜けた表情で口をもそもそ動かしている姿が脳裏に浮かんだ。私は度重なる反芻で息も絶え絶えになる中、トイレの鏡の前で杉崎の間の抜けた面と授業内容を思い出し、極度の緊張とふつふつと湧き上がってきた可笑しさで気持ち悪く笑った。「もしや、牛もこんな感じで毎回反芻しているのか・・・・・・。」牛の気分を味わった私は、その後スピーチを成功させた。それ以後も「反芻」は起きるものの、杉崎の顔と牛の気分を考えることで以前よりも安定してスピーチができるようになった。

 

なぜ私は杉崎の間の抜けた表情と牛の気分を考えることで自らの緊張を克服したのか。その時の状況を考えると、私の「反芻」は単純に「醜態を晒さない」というためだけに役立ったのではなく、緊張している自分を「吐きそう、いやもう口まで吐いてる」という身体感覚として自己認知し、さらに「杉崎の間の抜けた面を思いだす」、「牛の気分を想像する」ことによって、極度に緊張した状態から一時的に距離を置くことに一役買ったという推論が導けるように思う。おそらくこれが冒頭の「自己の客観的認知」に結びつくものであるだろう。緊張しているとき、不安に駆られているときは視野が狭くなり、自分の目の前の物事だけに集中してしまうものである。状況に飲みこまれそうなとき、一度すっと現実から遠ざかってみるのが自己の客観的認知であり、物事との適切な距離の取り方であると私は自らの「反芻」経験により学んだ。

 

無論、すべての人が緊張して吐くわけでもなければ杉崎のことを思い出すわけではない。私はたまたま緊張を解きほぐすために杉崎の間の抜けた面を思い出し、自らの吐しゃ物を飲みこんで身体レベルで牛の気持ちを考えるという一種の「型」を持っているだけで、これが万人に通用するノウハウでないことは明らかである。緊張したら手のひらに人なり牛なり字を書いて飲みこんでもいいし、聴衆を不細工な形をしたジャガイモなりタロイモだと思うのも勝手である。要は、緊張に対する自分の「型」を持つことである。場数を踏み、数々の苦い経験や失敗を反芻して、「緊張しない方法」としての自分なりの「型」ができるのだと私は思う。様々なノウハウ本が多数出版されているが、それらの方法論をそのまま踏襲するのではなく、自ら「緊張しない方法」を必要とする場に身を置き、現実の中で自分なりの方法を組み上げていくことが「緊張しない」ための最善の方法であると考える。