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白豚ノート

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

いつかの原風景

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 去年の9月から今年の1月にかけて、かなり忙しい日々を送っていた。ゴツゴツした岩のある、流れの急な川を一直線に流れ落ちていくような気がして、終始どこか心もとなく、自分がどこに行くのかわからない心持がした。へたりこみ、身体が泥のように座席にへばりつく丸の内線の車内で、ふと西日本を旅したときのことを思い出した。雨模様の空から一筋の光の束が差し込み、木々の間を抜けてその社が照らされた瞬間。なんでもない電車内の景色。漫画喫茶で心細く寝た夜。身体の力が抜けると、そのときのことが急に思い出されて、なんだかむずむずしたような気持ちになることがある。

 

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 上の写真は、伊勢神宮内宮の駐車場の奥にある饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)である。僕が伊勢を訪問したときは夏の終わりということもあって、紀伊半島に台風周辺の雲がかかり、雨が降ったり止んだりしていた。この写真は雲の切れ間から陽が差し、社が輝いている様子である。一瞬の光景だったが、随分と長い時間のことのように感じられた。

 

 記憶はどんどんふるいにかけられ、忘れ去っていく。しかし、特に覚えておこうとか、忘れないでいようとは思わなかったのに、強烈な感情を伴って残り続ける景色がある。そこには当時自分が感じた情緒やらにおいやらが染みついていて、折に触れて不意に湧きあがる。夕立の後の雨上がりのにおいや、肌で感じる風の温かさ。遠い日の風景に、センチメンタルを感じたり懐かしく思ったりする。そしてそのような景色は、忙しく日々の細かいことに振り回されていると、ついどこかへ、簡単に置き去りにしてしまうような気がする。そして、それらの景色はどこか強烈な世界観を持っていたり、色濃い感覚と共に脳裏にこびりついていたりする。

 

 小説や音楽を聴いていると、一節の言い回しやフレーズに強烈に引き込まれることがある。僕の好きな「くるり」の『ばらの花』はその典型で、イントロのピアノの音が物憂げな雨の様子を映し出し、宙ぶらりんな歌詞が、雨というごく小さな障壁に阻まれてどこにも行くことができない物憂げな雰囲気を作り出しているように感じる。ある番組によれば、くるりのボーカルである岸田さんが、雨模様の日に神社で歌詞の着想を得たという。

 


くるり - ばらの花 - YouTube

 

 窓から西日が差す昔の家や夏休みのラジオ体操、雨が降りしきるアスファルトの街並みや、下校のチャイムがなる冬の帰り道。ほんのふとした風景の中に、自分のふとした感情や世界観が宿ることがある。誰かにその光景を見せてあげたいと思っても、その光景は当時の自分の状態に色濃く結びつき、伝達はなかなか難しい。そういった言葉で伝わらない孤独を乗り越えるために作られたのが文学の修辞法などの一連のテクニックであり、美術における画法であり、音楽におけるところの旋律であり、つまり芸術なのではないかとも思う。

 


宿はなし - YouTube

 

 夜空に向かって伸びる、トランペットとアコースティックギターの音。誰かの心の中に住まいつづけた原風景は、また誰かの原風景を生む。難しいことは抜きにして、なんだかそういうのは素敵だなあと思う。

 

 参照:NHKグレーテルのかまどくるり・岸田談