言の笹舟

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

文章を書くこと

 紆余曲折を経たが、4月から文芸創作のできる大学院に進学する。小説や随筆を書いたり、互いに批評し合ったりするようなゼミ(今のところ、そのように理解している)に入る予定である。
 

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【東京:御岳山(ロックガーデン)】
 専門として追及するくらいだから、さぞかし普段から本を読み、毎日小説を書きまくっているのだろう・・・と思われるのかもしれないが、実のところをいえば、僕は本を読むのも文章を書くのも、あまり好きではない。友だちとワイワイ飲んで騒いだり、SNSやアニメをボーっと眺めてダラダラしたりする方が好きである。本を読むにしろ、文を書くにしろ、一番最初に思うのはほとんど「面倒くさい」である。本当は狂ったように本を読み、文章を書き散らすのが創作家なのかもしれないが、正直にいって、普通に仕事をして、その対価として金をもらう方がよほど簡単で、気楽で、かつ楽しい。
 アルバイト先に恵まれていることも一理あるとはいえ、僕は文芸に対して諸手を上げて好きとはやはりいえない。僕は文芸で身を立てようとは思っていないし、僕にとって文章が命をかけるほどに重要な人生の要素とは思えない。普通に働きたいし、普通に遊んでいたいし、金だってほしい。いい靴を履きたい。いい鞄がほしい。いい飯を食い、いい部屋に住みたい。本当は長時間労働がどうとか考えたくない。週末に気の置けない友だちとワイワイやっていた方がよっぽど楽しい。
 

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【京都:京都タワー
 実は、高校に入るまで恐ろしく本を読まなかった。それまでの主たる読書経験は、明日の用意をするときに手に取った国語の教科書をダラダラと読んだり、現代文の課題で出ていた「読書感想」的なやつで、見栄を張るために多少の本を読んだりしたくらいである。
 活字を追うより、ダラダラ自分で考え事をした方が楽しい。本の前に拘束されるという感覚が、今でも好きになれない。特に作家の文体が合わないと、5P読まずに本を投げてしまう。文章など書かずに、頭の中で「文章以前のほわほわしたもの」をこねくりまわしていた方が楽である。たまに「書きたい!」という熱烈な衝動に駆られるものの、いざキーボードを叩いたり、ノートに向かったりすると、「あれ、俺何書きたかったんだっけ」となる。見栄を張って少し背伸びをした文章を書こうとしたり、知らずに自分の気持ちと違うことを書いていたりすると、あっという間に袋小路にはまる。文章が続かなくなる。読むも書くも文章と向かいあったとき、自分は丸裸にされ、一切の薄っぺらな虚飾や才能の無さが白日の下にさらされる。思い出したくない出来事が頭をよぎる。部屋には自分しかいないのに、別に誰かが見ているわけではないのに、なぜかすごく恥ずかしくなる。誰かの本や文章を読む度にひどく感心し、その後で自分の文章を見て「ああ、これはやっぱりアカン」と思う。
 

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【京都:北野天満宮
 それでもなぜ大学院まで行くのかと問われれば、等身大の自分を日の下にさらすことで、自分の弱さと怠惰と闘うための手法を磨こうと思ったからだ。文章を書くという行為は自分自身の姿を再確認するという営みであり、もっと踏み込んでいえば、伝えるべきタイミングや表出すべき機会を失って凍りついた言葉や感情を、意識の端から少しずつ削り出して、元の流れに帰す営みである。行く宛を失った言葉や感情を少し元とは違う形で解釈し、意識に還元していく。自分自身の至らなさを見るより、存在意義を失った自分の感情に振り回されて人生を空費するほうがよっぽど苦しいから、膿を切るように向き合う。文章を書くことは手法であって、目的ではない。消化不良の思い出に囚われがちな自分が善く生きるための戦い方であり、素手で空を掴むようなあがきであり、生存戦略である。小説を書くようになったのも、随筆的には書けない物事があったからで、なるべく人に伝わるようにするための工夫の延長である。
 

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 【東京:高尾山】
 辛い思いをしても、そうして出来上がった文章というのは、やはり自分にとって大切なものだ。文章を読んだり、書いたりすることでしか出会えないものがある。
  大学卒業をしてから今までで、短いものと長いものの二本の小説ができた。短い方は何人かの友人に見てもらった後に小さな文学賞に応募し、長い方は現在校正中である。長い方は大学院のゼミに持ち込んで、メッタメタに批判されて鍛えてもらおうと思う。作りも粗雑で、登場人物の会話は薄く、情景描写は白々しく平坦だが、それでも大切な自分の文章なのだから、書いた責任は最後まで負うつもりである。
 そうした長いモラトリアムの先に、周りの人と楽しく働き、適度に酒を飲み、嫌なことがあれば互いに励ましの言葉をかけあう生活があればいいと思う。その日々の隙間に、苦闘の末の副産物として、自分の文章が他の人への「色々あるけど、まあ頑張ろうや」という小さなメッセージになればいいと思う。