白豚ノート

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

自己主権

 人間は自由であるというけれど、実際いたるところで人間は自由ではない。そもそも生まれた時点で好き好んで生まれてきたわけではないし、なにせ資本主義社会の落ち目の時代に生まれて、少子高齢化で若者の福祉負担額は増加、自己存亡をかけた企業間競争によって仕事量は増え、有給もロクにとれない日本によくも生んでくれたな、と両親を呪いたくもなるが、生まれてしまったものは仕方ないし、死ぬのも辛いし、じゃあどういうふうにして死ぬまで過ごせばいいのか、と誰かに問いたくなる。明治時代に問屋制家内工業からマニファクチュアになって、同時に資本主義が日本にやってきて、まあその頃にくらべれば今は全然マシなのかもしれないけれど、小林多喜二の『蟹工船』が未だに読まれたりしているのを見ると、資本主義が抱える問題は今後も肥大し続けて、結局僕たちはどこにもいけず、金がほしい、金がほしいと言いながら、(うまくいけば) 年寄りになるんだろうなと思う。

 

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鳥取砂丘

 とてもじゃないけど、人生は自分の思い通りにならない。「自分が自分の人生の主役」とどっかの誰かが言ったようだけれど、とても自分の人生の手綱を引けるような気がしない。人生は突如暴れ馬のように走り出して、とんでもない場所に自分を連れていく。他人や周りがつくる流れに従順になるしかないときもある。自分は自分の人生の主導権すら握れていないし、ともすればどっかの誰かが、自分の人生の主導権を握っているような気もする。

 

 そのまま誰かに主導権を握ってもらったまま、安心して人生を送れたらそれはそれで楽なのだろうけど、周りの人の話を聞いているとそうもいかない。企業が倒産したり、勤めた先がブラックだったり、人に騙されたり、人に利用されたり、流れ着いた先がとんでもない場所だったということが往々にしてある。高度経済成長期のような「大企業に入れば人生安泰」という幻想も崩れ、学生闘争のときのような改革の理想もどこにもなく、個人の生活にまでせまってくる社会問題も解決の糸口さえ見えず、ただ目の前の現実に耐えるしかない閉塞感。一体誰がこんな世の中にしたんだと問うても、責任者はどこにもいない。

 

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倉敷

 しかし、一歩ずつやるべきことをやり、なすべきことをなさない限りは、いつまでも辛いままだ。時代や社会のせいにするのは結局のところ思考停止で、自分が変わらないことには自分の生活の向上はない。

 

 アウシュビッツのユダヤ人強制収容所に入ったV.E.フランクルは、人間の生死が運命の悪戯によって決まる状況を目の当たりにして、以下のような言葉を残した。

・・・・・・人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。(『夜と霧』p.112)

 どんな状況にいても、自分がどのような人間になるかという精神上の自由だけは、すべての人間に残されているというのがフランクルの考えで、まさにこれは至言だと思う。ましてや自分たちのいる場所はアウシュビッツでもなければ、それと肩を並べるほどに自由が奪われているわけでもない。

 

 もしこれが人間に与えられた生まれながらの権利だといえるなら、行使しなければ権利を持たないのと一緒だ。どんな状況にあっても、できることは常にあるのであって、もはや絶望している暇などない。目の前の生活から楽しみや学びを勝ち取るも自分次第で、そこに一定のルールや方法があるわけではない。自分が周りの環境を利用し、自分自身の人生の主権を守りたいならば、それを奪おうとする諸力に自ら立ち向かうしかない。

 

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出雲大社

 たとえば、スマホをいじってる時間をちょっと短くして本を読むとか、音楽を聴くとか、周りには見えにくい小さな、具体的な変化から始めて、「ただ耐えるしかない状況」に戦いを挑んでいく。小さな変化を積み重ねて、まずは自分の生活を変える。社会や他人に文句をいうのは、あくまでその後にしたい(と常日頃思っている)。