言の笹舟

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

自己の目撃者

 自分は自分の最良の理解者とは限らないが、少なくとも最大の目撃者ではある。自分は「自分」という人間の中から、終止「自分」という人間を見ている。観察している。生まれたときから「自分」の運営を義務付けられ、なぜだか今日まで行きながらえている。稀有なことである。人は自分のことがわからないという。僕も自分のことがわからない。自分は「自分」のことをよくしらないのに、他人のことをわかったつもりになるのは傲慢である。いや、人間というものをわかった気になることほど、傲慢なことはない。人は死んだときに人間としての存在が確定するならば、人類も死んだときに人類となるのだろうか。裏を返せば、人というものはアイデンティティで縛られてはいるものの、死ぬまで変容し続け、成長もするし、退化もする生き物なのだろう。大学の友人が昔いった、「人に飽きるというのは最大の失礼」というのは、実に言い得て妙である。

 

 

 いつか、そのような変容を続けていれば、僕たちはいつか頭の中で思い描いたような「すべてが報われる瞬間」と出会えるだろうか。新海誠の最新作「君の名は」は、三葉を理想の女性として、「ユートピア」的なものを求め続ける主人公・滝の雄姿を描くものだった。途中、三葉と滝が互いに恋愛感情を抱くプロセスが省略されていたり、設定にいささか突飛な部分があったりと、諸手を挙げて好きとはいえない作品だが、そのコンセプト自体は非常に価値あるものだと思う。芸術がある種ユートピアを描くのは昔からの伝統だが、ユートピアを探し求め、そして中間項を省略する形式でいささか不合理な部分があっても、ユートピアにたどり着く主人公や周囲の人々を描くのは、いささか「祈り」にも似た光景である。ユートピアの獲得までの過程が不合理な説明や情景で描かれるのは、現代人が合理性や効率性、首尾一貫性というものに飽き飽きしている証拠ではなかろうか。

 

 僕たちは、いつか自分の理想が叶う、まさに「ハレ」の日を目指して、平凡で何事もない「ケ」の日々を生き続けている。その道のりはとても遠く、本当にユートピアが存在するのか疑わしくなって、なけなしのアルコールや愚痴に不満のはけ口を見いだして、あるいはネットメディアの刺激的な記事(すこし古いが、ベッキー不倫騒動の川谷絵音の血祭りなどはその典型だろうか)や、週に何回かのアニメを「精神的寄港地」として、資本主義の末期症状を呈する社会の中で生きている。最近、「第四次産業」としてのIoT技術や行政の36協定の見直しなど、各所で少しでも症状の緩和を目指そうという動きがあるが、事態の解決はもっと先というか、たぶんどこまでいっても人は便利さを求めるだろうし、戦後以来積み上げてきた社会の負債は、僕たちが生きている間には解決しないだろう。とすると、僕たちの骨折りは結局自分たちのためではなく、僕たちの息子の世代、あるいはその孫よりずっと後の世代になるのだろうが、自分たちに利益がない以上、果たして努力する意味がどれほどあるのだろうか。「我が亡き後に洪水よ来たれ」とは、フランス王ルイ15世の愛人であったポンパドゥール侯爵夫人の言葉であるが、これほど現代の自分たちの心理に当てはまるものはないのではないか。自分たちにメリットがない以上、社会改善の努力する意味はないなどといった、「極度の効率的思考」は、返って人間社会の緩やかな壊死を招くだろう。社会のための効率主義が、かえって自らを殺していくのはなんとも皮肉である。もはや、善行をなすための教義は「慈善」といったような非合理の側にあり、社会的壊死は、そのような非合理的行動でしか守られないのかもしれない。

 

 合理的に非合理的行動を進める教義がない。全員が全員、自分を守ることで手一杯なのだ。その中で、敢えて「君の名」を呼び続ける姿を描くというコンセプトは、半ば「祈り」にも似たものではないだろうか。