言の笹舟

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

ゆとりについて

 世間一般にいえば、私はいわゆる「ゆとり教育」を受けた者のひとりであるが、自分の学校生活を思い返してみたとき、はたして日々に「ゆとり」があったのかどうかは疑問である。むしろ日々は雑事に満ち溢れており、塾にいったり部活動をしたりと、何かと忙しいものであった。自分自身が日々やるべきことに対して、最大の効率性をもって臨んでいたかと言われると微妙だが、少なくとも周りを見ても、やるべきことをサボっている者以外は何かと忙しく日々を過ごしていたように思う。人が何をもって「ゆとり教育」と言っているのかどうかは謎だが、少なくとも僕は高校受験の段階で台形の面積の求め方も、イオンの考えも塾で習った。

 

 一時、「ゆとりですがなにか?」というドラマが注目を浴び、「ゆとり」という言葉が大きく取り上げられた。ゆとり教育とは学校教育における土曜授業の廃止や、授業内容の一部削減というニュアンスで世間に広まっているが、実際「ゆとり教育」を受けた自分たちに「ゆとり」はあったのだろうか。

 少なくとも小学生までは、学習や制度の面で遊ぶ時間や習い事をする時間が確保され、その点では「ゆとり」があったといえるかもしれない。しかし、中には塾に通う生徒もおり、中学校の授業内容を見据えた勉強を小学校高学年からやっている生徒もいた。中学生になると部活や勉強で忙しくなり、「ゆとり」などとはもはや無縁であった。むしろ、生活に存在する隙間は「将来有益に作用するであろう何事かをして埋めなくてはならない」というような考えが、自身にはあったと思う。「周りのやつらは着実に次のステップに向けて進んでいる。だから自分も頑張らなくてはならない」というような考えに突き動かされ、「ゆとり」などには縁がない中高生時代であった。

 

 思うのだが、「円周率を3で教える」とか「授業週休二日制の導入」で、人の人格がどれほど変わるというのだろう。むしろ、「ゆとり教育」を受けた者が何らかの特徴を備えているとしたら、大学全入時代の到来と、それによる受験戦争・塾ビジネスの拡大による作用が大きいと思われる。つまり、フーコーのいうところの「権力の内在化」が「受験至上主義」によって進み、より「従順で優しい、欲のない人間を生んだ」という論理の方が、少なくとも自分なりにはしっくりくるのである。要するに、「従順で優しい若者」が増えたのは、「ひとのいう事に従って頑張らないと、いずれ自分は失敗する」という強迫観念(=「未来至上主義」)を10代の間持ち続けたからこそ、「従順な若者」が量産されたといいたいのである。仮にもし「従順で優しい若者」が持つ傾向として「決断力がない」「自立心がない」「叱られるとすぐへこむ」のような事項があげられるとすれば、既にこれらの若者は「未来至上主義」によって「失敗しないように人のいうことを聞いておく」とか、「既に人にいわれたこと・後々人に言われそうなことを先んじて実践するようプログラムされているので、相対的に叱られた経験が少ない」ととらえることができないだろうか。少なくとも現代の若者が「従順で優しい」と仮定した上での議論にはなるが、こうした傾向を安易に「ゆとり」と結びつけるのは早計である。若者に対するレッテル貼りはいつの時代も行われているが、今回はたまたま「ゆとり」という「わかりやすそうな語句」と結びついただけで、実際は「権力の内在化がより進行した」ことに注目しなくてはならない。

 

ゆとり教育の犠牲者」といわれる若者も、自分たちがもつ傾向や性向を時代状況に照らして、ちゃんと考えなくてはならない。安易な結び付けに基づいた情報をあたかも真実のように受け取ることは、翻って自らも安易な結び付けによって、誤った他者判断することになる。自分と違う異質なものについて短絡的な判断を行えば、解決すべき多くの問題を看過し、社会の悪しき慣行が次の世代にも再生産されることになるのである。

 一般的で、わかりやすい判断に対して、適切な疑問を抱かなければならない。そして、なるべく自分の言葉で異質なものと向かい合うことが、今後ますます必要となるのではないか。