白豚ノート

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

「対話」を仕掛ける人

 対話になっているようで、なっていない「対話」がある。場に意見を出すことが双方に開かれていると見せかけて、実際はそうなっていない「対話」がある。

 人が自分の意見を伝えようとするには、それが受け入れられる余地がなければならない。自分の意見が伝わらないことが明白ならば、何も言わない方がマシだから、気の小さい人ほど「対話」を拒否する。「対話」を仕掛ける人間は、それを「逃げ」とか「話さないとわからない」などとまくしたてて、一方的に自分の意見をぶつける。

 このような「対話」においては、常にひとの上げ足を取るのが上手い方が勝つ。頭の回転が速く、「発話」の上での矛盾点を指摘するだけで、抽象的な議論を繰り返し、相手が折れるのを待つのだ。

 

 このような「対話」は対話ではない。暴力である。相手にとって、自分が間違っているように感じる状況を作りだす。「対話」を仕掛ける人は、相手が対話する余地を巧妙に奪う。生まれや育ちとか考え方などの属人的な要素を批判し、相手が折れるのを待つ。それが、「対話を仕掛ける人」の特徴である。

 真の暴力は、相手の自尊心を傷つけ、孤立させることを目的とする。時に「対話を仕掛ける人」は時に自らの過失を部分的に認めるなどして、自分があたかも理知的な人間であるようにふるまう。しかし、最終的に自分が正しいという居所を変えようとはしない。そのような、自分が変わっていこうとする気概が伴わない「対話」は、「対話の名を冠した押し付け」である。

 

 対話は、双方が自己批判精神を持っていなければ成り立たないものである。相手と共に、よりよい環境や状況を作っていこうとする姿勢――協同なしには、対話は成り立たない。「人間は不完全な存在であること」、「この世に絶対的な心理はないこと」。この二点を抜きにしては、対話は成り立たない。健全な対話には、勝ち負けや優劣はつかない。

 もし「対話」に出会ったら、相手の主張を吟味し、自らの改善につながる部分を抽出するだけで十分である。結局立派なことを言う者よりも、地道な改善を続け、よい仕事や成果を出した者が最終的には勝つのだ。