言の笹舟

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

無理はせずに

 努力すればするほど成功する確率が上がっていく――これはおおよそ正解だと思うけれど、おそらく真実ではない。たとえばすでに一定の水準のようなものがあって、自分の努力はそれを超えているか否かで成功/失敗が決まる――これを「水準モデル」と名付けたとき、この考えは努力の本質を得ているだろうか。成功すればいいが、もしその人が失敗したとき、「自分の努力には何が足りなかったのだろう」と思い悩むことだろう。

 失敗の原因を「水準モデル」で分析したとき、すべての失敗は「努力不足」という結論に落ち着く。「もっと効率的な努力ができたのでは」とか、「もっと良い選択なあったのではないか」と思い悩む。たしかに「水準モデル」は自己改善には役立つことは間違いない(自分の至らない点を全く振り返らず、同じ失敗を繰り返すよりはマシだ)が、時に自分の何がいけなかったのかがわからず、終わりのない自己嫌悪に苛まれることもあるだろう(僕はそのタイプである)。「水準モデル」は自己改善のための反省を促しやすい反面、明確な敗因を見つけられない場合は「反省」を終えることができない。そうなると、終わりのない精神上の袋小路に迷い込むことになる。

 

 思考とは手段である。だからその方法ごとに、本来は長所があり、短所があって然るべきである。しかし、形がないだけに選択的に選びとることができず、気がつかないまま「ある一定の思考」を植え付けられていることも多い。思考とは必ずしも属人的なものではない。場面に応じてある程度は使い分けることができ、意識的に選択可能なものだ。

「水準モデル」の根拠は、「努力万能論」である。すなわち、「正しい努力は、常に人を成功に導く」という論理が「水準モデル」の裏にはある。「水準モデル」では、自らに降りかかった不運は敗因にならない。なぜなら、「運も実力のうち」だから。

 しかし、世の中にはどうにも努力でひっくり返らないことがあるのも事実であり、努力しても無駄な場合というのは、現実に数多く存在する。たとえば恋愛を考えてみよう。いくら自分がおしゃれをし、整形をし、あらゆる努力を尽くしたところで、相手が「私」を気に入らなければ、すべての努力は無駄ではなかろうか。相手が「私」を気に入らない理由――すなわち敗因を考えたところで、何か生産的な解答をそこから得られるだろうか? おそらくそこには、相手が「私」を気に入らなかったということ以上の敗因はないはずだ。そのような現実を前に、人は「ま、いっか」と開き直るほかはない。

 ならば最初から無駄な努力せずに、ありのままの自分を認めてくれる人を待つか? それも否である(誰も彼もありのままの自分が素晴らしいのなら、最初から悩む人はいない)。程よく相手に気に入られる努力をしつつ、それでも相手に気に入られなければ「縁がなかった」のである。それが努力次第でどうにかなったのかどうかは、誰にもわからないことだ。

 

 努力しても報われなかったときは、次に同じチャンスが来たとき、決してそのチャンスを無下にしないよう、自己研鑽に努めるしかない。同じチャンスが来たとき失敗しないとも限らないし、もはや同じチャンスが来ないかもしれない。しかし現実に不満がある限りは、また同じチャンスが来ることを信じて努力するしかないのである。失敗したことを恥じ入りながら、それでも前を向くしかない。きっとこれからも同じような失敗を繰り返し、その度に努力の意味に迷うだろう。それでも、努力しなければ今よりよい現実はやってこない。

 報われるかどうかわからないけれども、祈るように努力する。成功したとしても、思い描いたような現実がやってくるかはわからない。「水準モデル」をひっさげて終わりなき自己改善に努めるか、ここで「ま、いっか」と諦めるか――どちらが賢いかはわからないが、いまよりマシな現実がいつかはやってくるのだと信じて日々を過ごす方がよっぽど楽しいのではないか? 己の至らなさを目の当たりにして凹んだあと、気まぐれに「次は頑張るぞ」とカラ元気を振りまいてみたり、かと思えば凹みすぎて体調を崩して眠れなくなったり――でも、それが一番真っ当な気もする。

 思い悩みすぎてはいけない。しかし、反省しないのもいけない。要はバランスであり、各々の思考を使い分ける必要がある。たとえそれで迷うことがあっても、悩みすぎて何もできなくなったり、逆に反省を忘れ、傲慢になっていくのも間違いだろう。時に反省し、時に開き直り、向こうから成功がやってくるのを待つ――そうして待つ時間を、楽しくすごせればよいと思う。