言の笹舟

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

過ぎ去った人

 ひとり旅をしていると、いなくなった人たちのことばかり浮かぶ。知らない街のバスや電車に揺られているとき、宿で寝る前に今日あったことを文章にまとめているとき――ひとりでいると、もう自分のもとにはいない人のことを考える。

 

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京都・鞍馬寺

 

 自分から距離を置いた人もいるし、逆の場合ももちろんあるけれど、いなくなった人のことを思う度に考えるのは、「この世にいない人と、連絡がつかない人の区別はどこにあるのだろう」ということ。これだけ通信機器が発達した世の中になれば、旧友といっても連絡を取ることは容易で、LINEひとつ送れば、気軽に相手と連絡がついてしまう。じゃあ、「連絡を取ろうと思ったときに取れる」のならば、「連絡が取れないのは連絡を取る意思のないことの現われ」なのでは・・・・・・?

 

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京都・出町柳駅付近のゲストハウスにて

 そう考えたとき、「連絡を取れないこと」は限りなく関係性が死滅した状態に近い。相手の意思なしには、もう僕はその人に会うことができない。そして、逆も然り。関係が切れてしまえば、なんだかもう生きているのか死んでいるのかもわからなくて、ふと街でその人に会ったときに「生きてたんだ」と思うこともある。ふと街角ですれ違う可能性が残されていることが、死んだ人と連絡が取れなくなった人の違いかもしれないが、それ以外に明確な違いってあるんだろうか。

 

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京都・長楽寺

 

 今ある人との関係を全力で大切にしようと思う――思うけれども、実際にはふと冗談のつもりでいったことが相手を傷つけていたり、よかれと思ってしたことが裏目に出たり、上手くいかない。ひとに優しくしているつもりでも、その人にとっては有難迷惑だったりする場合もある。じゃあ優しさとか、誠実さってなんだろうと考え出すと、ふらりと旅に出たくなる(実際は旅に出る暇なんてない)。

 

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近鉄奈良駅前の夕景

 

 それでも、「どうしたらあの人を失わないで済んだのだろう」と考えて、こうだろうか、ああだろうかと思いをめぐらせ、その都度試行錯誤していくしかないんだろう。失うときには失ってしまうのだから、その分、今手の中に残されたものを大切に育てていくしかない。寂しさや後悔を肥やしにして、優しさを育てていくのだ。迷いつつ、効率もきっと悪いが、きっとそれだけなんだろうと、帰りの新幹線で思うのだった。