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白豚ノート

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

自罰心と文学

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不幸になりたい人はいない、というのは真っ赤な嘘だと思う。確かに生きている以上、お金が欲しいだとか、自己実現がしたいだとか、人のためになりたいとか、そういった諸々の幸せに対する前向きな欲求があることは疑いようもないが、それと同じように、人間は幸せと同じくらい、時に不幸を欲するものであるとも思う。

社会学から鞍替えをして、せっせと文学理論やら文学史やらを勉強していると、社会学以上に様々な人と紙面の上で出会う。社会学には、方法論的個人主義などの個別具体的な視点から出発して理論を練り上げていくというような考え方こそあるものの、深い個人の理解というものはあくまで「精度の高い共通項の抽出」のために成される。文芸においては、表現というところに重点を置くため、人を引き付けるための理論の素みたいなものは絶対的に必要ではない。架空であれ実在であれ、人と出会うことは自分と出会うことであり、表現の目的というのは作者にとって「深い自分に出会ってもらうこと」であると同時に、「読者自身が深い自分に出会うこと」を喚起するものでもあると思う。


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例えば太宰治は、典型的な「破滅型」の私小説を書いた作家として有名である。数々の愛人を作り、自殺未遂をし、服薬し、最終的に玉川上水で自殺をするという文学的偉人であるが、いってしまえば人間的にはどうしようもない方である。知り合いに太宰治がいれば、だらだらと交際を続けて一緒にカルチモンを飲む程の間柄になるか、「そういえば中学校のときクラスにいたかもてかそういえば俺2年のときクラス一緒だったわ」的な付き合いになるかのどちらかであろうと推察する。しかし、彼が文学的偉人として今日も太宰の小説が読まれ続けるという事実は、おそらく太宰が人間が持つ不幸への欲求に命がけで向き合った結果であろう。


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何とはなしに歩いていると、たまに昔あった嫌なことを思い出して、なんだかまっすぐ前を向いて歩けないような、下半身の力がひゅるりと抜けていくような気分になることがある。もっとひどい場合は無意識の深海に記憶が沈められ、例えば早朝たまにみる悪夢のように、意図せずに自分を縛り付けてくる(もっとも、それさえ推測である)ものもある。そのような後ろめたさからゆっくりと立ち上がる自罰心というのは、どうしようもなく人を絡め取り、幸せから自分を遠ざけていく。

そのような圧力から逃れ出るためには、一体どうすればよいのだろうか。ウジウジしてるんじゃねぇ!などと一蹴する輩には、およそ文学は不要である。水平に投げ放った物体が落ちていくのと同様に、人間も惰性に従えば落ちゆくものであって、特に自罰心というのは、怠惰や甘えの吹き溜まりとなりやすい。不幸とは、時に入っていて気持ちのいいぬるま湯のようなものである。自分が不幸であれば、幸せが雲散霧消することを恐れることなく、何も求めさえしない限り、ずっとそこに安住することができる。


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重荷のような思い出を抱えながら、一歩一歩進む。自罰心に自分を乗っ取られないように、常に動向をうかがいながら、挑戦と行動を繰り返す。亀の歩みのように、よろよろと自らの重みに揺らぎながら。それでも、何の後悔する思い出を持たないより、現状から外へ出られなくなるより、苦痛にまみれる自分の方がより自由なのだと言い聞かせる。太宰の文章が心を打つのは、自罰心にまみれながらも、そこに真理を少しでも見いだそうとした点にある気がする。