ポケットにファンタジー
「ポケットにファンタジー」という曲をご存じだろうか。
今は昔、現在でいう20代前半がまだピカピカの小学生のころ、初代アニメ版のポケモンのEDであった曲である。これが色んな意味でエッモエモのキラーチューンであり、その歌詞内容は、ママが子どもに「もう一度子どもに戻ってみたい」と話すというものである。見るからに重そうである。というか、普通に重い。
Apple Musicを導入してから、知らない曲や古い曲を聴く機会が増えた。そこにたまたま落ちていたのが、ポケモンのOP・ED楽曲集だった。僕はこの楽曲を、10年強ぶりに聞いたことになる。
【東京・高尾山】
僕がこれを初めて聞いたのは小学校低学年だった。そのころの自分は例に漏れず、「早く大人になりたい(夜更かしができるから)」と言っていた子どもだった。「早く大人になりたいの♪」と少女がいう歌詞の始まりは、まさに少年の頃の自分自身だった。
「もう一度子どもに戻ってみたい~♪」
そんな少女に、ママはいう。重い。絶対そんなことを子どもにいうもんか。さらに、ママはこう続ける。
「昔私がまだ子どもだった頃~♪
ポケットに入れてた たくさんの宝物
いまでも時々、顔をのぞかせるのよ~♪」
「それって、ピカチュウ?」
「さあ、なんでしょうね?」
「昔のこども今こども ポケットの中には誰だってファンタジー♪…」
ママの重々しい懐古には、10年後もポケモンを残したいというメデ○ア・ファクトリーの野心が垣間見えなくもないが、実際ポケモンは今も残り続けているし、当時僕達を熱狂させたルビー・サファイアのリメイク版が発売された十数年後を生きている。結婚した同級生もちらほらいることだし、「ポケットにファンタジー」を親の側から聴くことになるのも時間の問題だ。
小学校の夏休みのプールの授業が終わり、中学・高校の部活動が終わり、いくつかの淡い恋が終わり、数々の現実を前に子どものころ抱いていた夢が消えた。ママの気持ちの裏側に透けて見えた得体の知れないエモは、僕たちが辿ってきたプロセスそのものだった。
さて、僕たちのポケットの中にファンタジーは残されているだろうか。ポケットをひっくり返しても、せいぜいスマートフォンくらいしか出てきそうにない。
【東京・高尾山】
今や自分たちのポケットには、ゲームボーイでもピカチュウでもなく、タッチパネル式の薄型ディスプレイが入っている。それはいつも新しい情報や刺激を連れてきて、日常の隙間を敷き詰めていく。ゲームは原則無料の課金制になり、小学生でさえ親が機種変更をした後、用済みになったスマートフォンをいじっている。
ファンタジーがポケットからこぼれ落ち、代わりに雑多な情報でポケットが満たされて、今やその流れは小学生にまで及びつつある。ゲームはストーリー性がなく、細切れで、刹那的な興奮に満ちたアプリケーションとなっている。重厚なストーリーや根気強く取り組むゲームが消えたとはいわないまでも、以前とくらべて少なくなったような気がする。
友人関係が原因で学校に行けなくなったとき、僕が逃げ込んだのはゲームの中のファンタジーだった。ゲームや小説、映画が作り出すファンタジーは、時として現実に打ちひしがれ、にっちもさっちもいかなくなった僕らの最後の逃げ場所となる。雑多で脈絡のない情報がもたらす鈍い刺激――誰それが不倫したとか、何をどうすれば人生上手くいくみたいな安逸なライフハックとか、そういったものに踊らされるだけでは、到底僕たちが救われることもないのではないか。
【大阪・USJ】
ファンタジーから醒めれば、僕たちの前にはさして変わりばえのない現実が待っていて、結局のところ、虚構というのは脆弱で無力な存在でしかない。現実を変えていくのは実直で泥臭い自分の行動だけで、ファンタジーに逃げ込むことは物事の根源的な解決にはならない。
それでも、ファンタジーという僕たちの安息の場所があるということ、とりわけ、人が誰かのために脳汁を搾り出して紡いだ世界が自分の傍らにあるというのは、本当に心強いものである。大好きなファンタジーがひとつあれば、僕たちは強大な現実を前にして、少なからず自分を保つことができるのではないか。
そんな物語を、いつもポケットにいれておきたいものである。