言の笹舟

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

向こう側の人

21時の新橋をふらふらと歩く。国道の交差点の信号待ちで、ぼーっとあたりを見ながら仕事が終わった余韻に浸っていると、大手メディア企業のビルが圧倒的か高さから僕を見下ろしていることに気づいた。窓には無数の光が灯っている。ああ、中にいる人はまだ働いているんだなあとぼんやり思っていると、体調大丈夫かなあとか、家に帰れてるのかなあとかを勝手に想像して、1人沈鬱な気分になってる自分がいた。こんなことを考えても、ますます社会から取り残されるだけであるのに、あることないことを考えて、1人心象的に動けなくなってる自分がやはり腹立たたしい。

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 ※個人撮影

一時期、大学院を本格的に目指して労働関係の本を読み漁っていた時期があった。1日中大学の図書館に引きこもり、あることないこと難しいことをずっと考えてるうちに、結局様々な物事が複雑に絡み合って、何も言えない自分がいることに気がついた。自分の精神的虚弱もあるが、そのような生活を一生送り続けることに不安を感じ、またそれも辞めてしまったのであった。

 

偶然早く起きた日曜の朝にTVをつけてみると、オジチャンたちが自分の意見を言い合って、お前は何もわかってないばりの激論を飛ばしていた。お互い何をどうわかってるのかいまいち掴めなかったが、なんとなくいい気だけしないということだけは毎回思う。

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※個人撮影

例えば、「労働法をキチンと守らない企業はダメ」とか「社員を守れないブラック企業は名前を晒しあげて罰するべき」とか、色んな言説がある。僕もかつて、長時間労働だのパワハラだの、いくつか思い当たる経験をしたことがあるから、企業の体制やら採用形態に色々言いたいことはある。本格的な就業体験がない一学生の僕が、何を言ったとしても詭弁にしかならないと思うのだが。

 

大学1年生のとき、塾講師としてアルバイトをしていたのだけれど、その時の僕の生活たるや、まるで下水をすすって生きるような日々であった。そのころの詳細のことは、今となってはもはやあまり思い出せないのだけれど、もし東京のビル群の窓の明かりの下で地獄のような思いをしている人がいたら・・・と思うと、急に身体の力が抜けてくる。一方で、社員を守らなければならない経営者の人たちもいて、もはや自分に何が言えるのか、何ができるのか全くわからなくなり、途方に暮れた気分になりながら夜のSL広場をウロウロし、ふとお腹が空いて牛丼を食べたりする。

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※個人撮影

24時間空いてるファーストフード店を求め、安い牛丼をそれでも僕たちは求めてしまう。ワンオペだの、安い賃金だの、叩かれた企業があるが、本当にその状態を生み出しているのは自分たち自身なんじゃないか。それなのに、ホワイト企業に就職したいとか、なるべく自分らしく働きたいとか、能弁を垂れている自分にまた嫌気が差してしまう。僕らは被害者であると同時に、間接的に加害者となっているのではないか。最初の話に戻るが、そんなことがわかったとしても、圧倒的な現実の存在が見えるだけで、自分に何ができるでもない。

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※個人撮影

スローライフに戻ろうとか、原始的な生活に帰れとか、そんなことはとても言えないが、せめて、闇雲に安い牛丼を食ったり、店員にやたら文句をつけたりとかしないようにするためにも、もう少し仕組みの向こう側にいる人のことを考えなくてはならないのではないかと思う。

海と消えた街

僕の最初の記憶は、当時大学生だったおばちゃんと、宮城の祖母の家で遊んでいた記憶である。その次の記憶は、埼玉の幼稚園で僕がガキ大将の相撲ごっこに無理やり付き合わされ、突き飛ばされてドアに頭をぶつけて泣いた記憶である。その間には実に2年くらいのブランクがある。なぜ祖母の家で遊んだ記憶が自分が思い当たる最初の記憶なのかは今でもわからないので、多分一生わからないままなのだろう。

 

2歳のときに埼玉に来て今に至るわけなので、僕は事実上、埼玉出身となる。しかし、実に陳腐なアイデンティティなのだが、出身を聞かれたときは「宮城県生まれ埼玉県育ち」ということにしている。自分の出身を人に説明するとき、毎回少々アンビバレントな気持ちを味わうことになる。

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※個人撮影:鳥取砂丘

親の実家が宮城にあるので、1年に1回、お盆の時期に家族揃って宮城に行く。毎回僕ら一家が帰省すると海に行くのが親戚一同の恒例行事となっており、よく閖上の海岸に赴いて従兄弟と一緒に遊んだ。一度、浮き輪につかまったまま離岸流に流されて、慌てた父親が助けにきた以外はすべていい思い出である。

 

というわけで、僕の海の原体験は宮城の海にある。海水浴場の駐車場に車を停め、防砂林である松林を抜けると、防波堤の先に一面の太平洋が広がる。あまり綺麗な海とは言えなかったが、それでも海なし県に移住した僕にとって、海はやはり特別な存在だった。

 

一度、海辺の街にあった小さな食堂で、ほや貝を食べたことがあった。オバチャンとオジチャンが2人で切り盛りしていたから、きっと夫婦だったのだろうと思う。あの海辺の食堂は一体どこへ行ってしまったのだろうかと、時折ふと頭をよぎる。

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※個人撮影:松島

2011年3月11日、宮城県沿岸部を大津波が襲ったのは、未だ記憶に新しいと思う。気仙沼港の海は流れ出した油に火がつき、水面が燃えるという地獄絵図をTVが映し出していた。逃げ遅れた軽自動車は津波に飲まれ、次第に水に流されて横転した。ちょうど映し出された画面は閖上だったが、なぜか遠い世界の出来事のように感じて、まさか僕の知っている海辺の街が丸ごとなくなっていたとは思わなかった。 

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※個人撮影:宮城

震災後、宮城に行ったのは2011年5月のGWだった。重苦しい雨雲の下、海辺の街へ向かうと、途中から様子が変わった。道路と私有地を隔てる柵がひしゃげ、さらに進むと家々の土台が残っていることを除いて、一面のさら地になっていた。一箇所にまとめられた瓦礫にはカモメが群がり、一体ここはどこなのか、まったく判別がつかなかった。自分が知ってる海辺の街が、丸ごとどこかへ行ってしまったような気がした。遠い親戚が住んでいたという家に行くと、やはり住宅の基礎以外はなくなっていた。僕はやるせない気持ちのまま周りを見渡していると、砂の中に陶器のようなものがあるのに気が付いた。足で砂をどけてみると、そこにはタイルが砂に埋まっていた。

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※個人撮影:宮城(2014)

例えば、僕たちは昔住んでいた街に行くと駅前の風景や道を見て、「懐かしい」と感じる。それは、風景に自らの記憶がひっかかっていて、自ずと昔の記憶が引き出されてくるからである。しかし、本当に街が壊滅し、そのような風景が根こそぎさらわれてしまった街では、かろうじて砂の間から見えるアスファルトの道路標識や、基礎の並びから家々の配置を思い出すしかない。無論、そこで生活してない僕には、海辺の街がそっくりそのままどこかへ行ってしまったような感覚を持った。本当に何もかもを失った場合、家財を失うことに伴う苦痛は僕らにも想像できるかもしれないが、当たり前に存在した、日常の記憶のひっかかりでさえ失った人が一体どれほどの苦しみを味わったのか、僕にはまったく想像できなかった。

 

薄緑色のタイルはどこから来たのだろうか。風呂場に使われていたのかもしれない。炊事場に使われていたのかもしれない。僕とタイルの間に接点はないが、見る人が見ればそれが昔、何として存在していたかがわかるのだろう。圧倒的な隔絶を前に、僕は埼玉の人間であり、言ってしまえばただの部外者であり、所詮人の苦しみは自分が経験した程度のものしか理解しえないのだということをその時知った。しかし、この街で海の記憶を得たからには、完全なる部外者としていることもできなかった。

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※個人撮影:宮城

こんなことを考えて勝手に悔しくなっている自分が、次第にバカらしくなってくる。所詮当事者気取りかと自分に唾を吐きかけたくなったときもあったが、「あのとき」のことを祈るように考え続けることが、いつか間接的な支援になるのではないかとも勝手に思っている。具体的に実を結ぶような充実した結末が想像できなくとも、それでも何かをし続けることを求められているような気が、なんとなくする。

田んぼとコンクリートビル

 日本のほとんどの風景は緑に覆われた山々で、新宿が見せるような摩天楼や、軒並み連なる家々は、日本のが見せる一部の姿でしかないのではないか。そう思ったのは、僕が進路に迷いに迷いあぐね、脳みそが茹であがりそうになった大学3年の夏であった。5日間、つまり、青春18切符の効力が許す限りの間だったが、僕は電車を跳ね馬のように乗り継いで、西日本を渡り歩いた。

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※自主撮影

車窓の外の景色は、名古屋を抜けて三重に入ったあたりから、次第に様相が変わってきた。家がまばらになり、その代わりに緑と畑が多くなっていった。電車を乗り継いでいくうちに、電車の中にトイレがついた。本を読み、音楽を聞き、景色を見、それに飽きるとまた本を読んだ。線路の周りは木々で覆われ、車内の人もほとんどいない。

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※自主撮影

高校生は自転車での行動範囲では満足できず、原付免許を取る。電車は1時間に1本だから、乗りのがしたら大変である。高校生は東京か大阪の大学を目指す。

急に乗り込んできた学生でパンパンになった車内にいるうちに僕はふとそんなことを考える。一体どんな生活なのだろう。どんなことを思うのだろう。幼いころに都会に移住した自分には、ほとんどよくわからない。

 

本当にどこまでも田園風景が続いた。僕は東京の姿ばかり見て育ったけれど、実は東京というのは異質で、確かに日本のかなりのイメージを東京などの都市が持っているけれど、それは実は自分の中にある勝手な見方なのかもしれないと思った。

 

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※自主撮影

田園風景を見ながら、自分が育った東京郊外の街を思う。東京は、圧倒的な量の労働を人々に供給し続けている。そして人々はそれを需要する。別段それが悪いとかいいとかいう話でもないけれど、東京に知らないうちに食い殺されていく人も中にはいるのだろうなぁと思ってしまう。ビルが放つ一つひとつの明かり下には人がいる。東京の夜景を見て綺麗だなぁと自分も思うけど、明かりの数だけ人の生活があると思うと、少し色々考えなきゃいけない気がしてくる。

 

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 ※自主撮影

東京は悪く、田舎は良いという単純な図式に落とし込むつもりはない。都会の生活は無機的だとか、無闇やたらに自然に帰れみたいなことを言う人もいるけど、例えば夜景の明かりの下にも、電灯がほとんどない場所にも、人々の生活がある。東京の夜景は搾取される人によって作られるというつぶやきがTwitterで一時期出回ったけれど、電灯の下にも人と人の思いやりがあったり、何かの理想に向けて頑張ろうとしてる人がいる。

 

結局田舎も都会も、一つの物事とか側面からしか見えないのだろうけど、そこから何か全部がわかった気になったり、一つのことを信じて誰かのことをないがしろにしたくないなあとは、なんとなく思う。