長い無駄足
【三重・二見浦】
記憶の中の印象深い場面や風景は、既にそれ自身が生命力を持っている。独特のにおいや情景に裏づけられた記憶は、気づかぬうちにすくすくと自分の頭の中で育っていって、ひとつの捏造された世界を作りだす。例えば二見浦の海岸や、熊野古道の鬱蒼とした木立は、当時聞いていた音楽と共に強烈な印象をもって思い出される。そのときは、なぜか合唱曲を聴くのにハマっていて、「方舟」という歌集の「夏のおもひに」という曲が紀伊半島のテーマだった。
【京都・地蔵院】
何も旅行だけではなくて、ふと何気ない瞬間の光景をやけに覚えていることもある。夏のある暑い日の昼下がり、幼稚園前の住宅街を子どものころに歩いたのを覚えている。住宅街の一角に、乾電池の自販機の横から自分の背を二つ重ねた分くらいの高さのアーケードが伸びていて、「ここはなんだろう・・・?」と不思議に思ったのだった。
大学の長い夏休みに思い立って幼稚園付近の住宅街を散歩したが、いくら周りを歩いてもそのような商店街は見つからず、結局思い過ごしだったと思ってそのまま帰路についた。3m程度のアーケードなんて考えてみれば低すぎだし、子どものころの記憶などあてにならない。きっと何か夢でも見ていたに違いない。
【和歌山・紀伊勝浦港】
忘却の流れに抗って頭の中に残り続ける記憶は、時としてありもしない過去を作り出す。何も場所だけではなくて、離れていった人や過ぎ去った出来事も、大切な記憶であればあるほど独自の世界を作り上げていく。「あの頃は・・・」「あの時のあいつは・・・」などと言い出しては憧憬に浸ったり、懐かしんでみたり、悲しんでみたりする。記憶というよりは、思い出といった方がいいかもしれない。
それは一種の慰めでもあるのだけれど、時としてその思い出の作り出す世界から抜け出れなくなることもある。触れるだけですぐに壊れてしまう構造物なのに、時に四方八方から思い出を眺めて、何やら大切に思ったり、自らの現在を左右するほどに重大なものだと思ってしまう。やたら学生時代が輝かしく思えたり、前に付き合っていた人が懐かしく思えたり、日々の隙間に様々なことを思い出すけれど、決してその世界に足を取られたり、深く入れ込んではいけないと思う。
【埼玉・巾着田】
思い出と自分の関係を見極めて、また適度な距離を取って、肥大した虚妄に惑わされず、大切にすべきものはきちんと大切にする。その営みは決して簡単なものではなくて、時として長い無駄足や、独自の方法論が必要となるのかもしれない。他人から見ればすぐ踏み出せる一歩が、当人にとっては果てしなく長い道のりで、「なんで~しなかったのか」とか「もっとよいやり方があった」とか思うけれど、たぶん大変に思った分だけ得られるものも多いし、歩いた分だけきっと脚力はつく。
まあ、実際はどうだか知れないけれど、そういうことにしておく。
旅歩き記:長楽寺編
「毎年一人旅に行ってます」と言うと、申し合わせたように「おすすめスポット教えて」と言われるので、何個かピックアップして文章に起こしておこうと思う。第一回目(何回続くかわからないが) は、事あるごとにオススメしている長楽寺である。
丸山公園付近の有名な神社と言えば、大体八坂神社か知恩院が有名なスポットである。八坂神社の朱色の灯篭に彩られた参道や、知恩院の規模感などを考えると、多少長楽寺が見劣りをするのもわからなくはない。第一、長楽寺は丸山公園の南東の奥に位置し、公園を歩きまわった人ではないと見つからない。
長楽寺の魅力はそこにある。京都と言えば、JR西日本の「そうだ、京都行こう」のCMが非常に有名である。紅葉に色づく寺社の境内が映し出され、サウンド・オブ・ミュージックのマイ・フェイバリット・シングスが流れる。見ていて非常に京都に行きたくなるCMであるが、ひとつ留意したいのは
京都をCMほど静かに回れるはずがない
ということである。人でごったがえす寺社仏閣ほど趣のないものはない。俗世間と割り切った空間を求めて来ているのに、寺社仏閣で人まみれになるのは御免である。
そんなアナタにおすすめなのが、長楽寺である。
そんなわけで、長楽寺には人が来ない。とにかく人が来ない。注意すべきは、木曜日が拝観をやっていないということだが、実は参拝はできるということである。木曜日は長楽寺が所有する文化財や庭園を見ることができないが、右手の小さい入口から境内に入ることができる。庭園を見れないのは確かに痛いが、その代わり静かに境内を巡ることができるので、それはそれでオツである。
長楽寺の境内には平安の滝と言われる場所があり、「八功徳水(はっくどくすい)」と呼ばれる名水を飲むことができる。滝の前にあるひしゃくで水を飲むわけであるが、毎回滝の水をダイレクトにひしゃくで受け止めて飲むべきなのか、樽に溜まった水を飲むべきなのか一瞬迷うのだが、毎回前者を選択する。滝は結構な落差があるので、ひしゃくで水を受け止めるとビチャビチャと跳ねる。成人男性がひとりで水をビチャビチャやっているのはなかなかに不気味な絵面だろうが、その迷いや何やらを吹き飛ばすほどおいしい水である。なんでも「八種の功徳」があるとか。那智で飲んだ水もおいしかったが、それと同じぐらいのオツさに浸れる。
拝観をやっている日は、500円で庭園と文化財を見ることができる。おすすめなのは庭園であり、和室の縁側から庭園を眺めることができる。あまり人がこないということもあって非常に居心地がよく、寝たりTwitterをしたりして、休むことができた。線香のにおいに包まれながら、きれいな庭園を見つつ過ごす。非常に良い。「日本文化万歳」とか何とか言いながら、人が来ないばかりに寝そべっていた。本当にすみませんでした。
参考HP
「今までで一番良かった御朱印は」
京都記2015
身の周りの雑多な物事が一区切りを迎え、10月の上旬に京都に向かった。色々な物事を放棄し、出雲から香川、京都に至るまでの五泊六日に渡る逃避旅行から一年、長楽寺にもとりあえず一区切りついたことを報告しなければと思い、四泊五日で京都市内を巡ってきた。「なんで京都にそんな行くの?」とか言われ、その度にいつも煙に巻くような発言をしているのももどかしいので、キーボードを叩くことにする。
【京都駅】
バイト先の人から「何かあるとすぐ京都に行く」と揶揄される。たまに一人旅の話をしていて「うらやましい」と言われるが(確かにかなり贅沢な話ではある)、そこまで一人旅にきれいなイメージを自分が持っているわけではない。どこかに行くとしたら確実に気心の知れた人と行く方が楽しいし、やはり知らない土地で一人というのは、ふとした瞬間に染み入るような寂しさを感じたりもする。
【糺の森】
格安貧乏旅行をテーマとしており、「いくら金を使わずにいい経験ができるか」を主眼に置いている。腹が減れば当然イライラする。夜行バスに乗って移動した次の日は何もする気が起きない。服は着回し、タオルは何回も使う。適当に地下鉄に乗って座席に座り、駅の名前や電車の掲示物を見たりうとうとしたりしているうちに、太秦天神川から六地蔵までをバウンド輸送されていることもある。いやいや、それなら金使えよ、という話でもあるのだが、別にそこまでして金を使いたくはない。別に快適でなくてもお寺は回れるし、最低限の金があればある程度の範囲を好きに回ることができる。
事前に予定を立てる旅行もいいが、まったく予定を立てないでフラフラと散策する旅行もいい。いつもはガチガチに予定を組んで西日本を飛び回る旅行をしているが、今回は成り行きにまかせてほっつき歩いた。気になる小道があればそこに入り、いい場所があったら入り浸る。1日起きたときに、なんとなくどこへ行くか考える。バスに乗ったり、お寺でボーっとしている間に、考えたいことや、考えなければならないことを考える。「5分以上の思考は大した意味を成さない」というのは日々の経験則だが、田んぼの脇の小さな用水路の流れを眺めるときみたいに、このときとばかりにボーっと時間を浪費する。身の周りの些細なこととか、集団的自衛権や赤字国債のことを考える。「日本は沈没するから、はやく海外に移住するのがいい」とかいう人もいるけど、実際自分は日本人だし、お寺や神社が好きだし、福島のことを考えるとそう簡単に故郷を捨てられないよなーとか思ったりする。政治的なことも考えるが、決して実利的ではない。ひとりでぼんやり考えることなど、所詮たかが知れている。
【神泉苑】
Googleマップを見て、近場のよさそうな場所を見つけて、実際にいく。そうすると、ガイドブックでは端の方にしか出ていない、きれいな場所に出会うこともある。拝観料は無料で、夜になると証明がつくなど、ホスピタリティの鬼だったのが上の【神泉苑】である。決して境内は広いわけではないが、ライトアップもあって昼と夜でまったく違う趣きがある。
逆に、行ってみて後悔することもある。思い込みや勘違いなどの情報不足から、自分が思い描いていた景色と出会えないことも多々あった。無名なのにいいところもあれば、有名なのにあまりピンと来ないた場所もあった。嵯峨野の竹林がライトアップ期間外で、ただの蛍光灯の白い明かりに照らされていたときはひとりで白目を剥いた。
ひとつの旅の中で思いがけない失敗と成功を繰り返す。「セレンディピティ」という言葉がフワフワと頭に浮かぶ。
【大徳寺高桐院】
自分が思い描いていた予定調和を外れていく。「効率性」という言葉に歯向かうように行動していく。確かな四季の流れがあり、水の流れや鳥のさえずる音があり、時間がゆっくり進んでいく。そういうものをしっかりと感じ続けるのにも、人間にはエネルギーが必要だ。働いて働いて働き疲れて、一番最初に奪われたのは「季節の感覚」だった。春に咲く花も、夏の夕立のにおいも、秋に色づく紅葉も、冬の雪景色も、本当にせわしなく流れる日々の中では何も意味をなさなかった。「そんなものに構っている暇などない」という思いは、人間の感覚を死滅させていく。最低限の自分の感覚さえ保てないような場所は、ゆっくりと、しかし確かに増え続けている気がする。
【長楽寺】
1年前にも行った場所に立ち、自分がどう変わったのかを確かめる。去年と同じことを願っている自分に出会うこともあれば、少しだけ前に進めた自分を発見できることもある。今の自分は何を考えているのか?どういう方向に進んでいるのか?距離的に遠い場所で、心理的に近い人のことを考えてみるのはどうか?その試みは際限がなく、そして楽しい。もちろん、100%楽しいわけではない。健康的な幸せとは、「幸福偏差値52」くらいの幸せである。
【木屋町】
染み入るような寂しさも、腹が減る苛立ちも、去年と変わらない自分への焦りも、ひとりでなければ看過してしてしまうことばかりだ。一人旅は、周りと自分の位置関係を確かめさせてくれる。
まあでも、そろそろ友達と行った方が健康的かなという気もしなくもない。錦市場で食べ歩き、木屋町や烏丸四条の飲み屋で飲んだくれるのだ。本当、木屋町と神泉苑はおすすめだから、今度京都に行く人はぜひ行ってみて。
ホステル京都っ子 〜京都旅行記〜
身の回りのことがひと段落するごとに、京都に行くことにしている。そのたびにいつも、「格安旅行」をテーマとして旅行をしているのだが、今回3000円以下で朝食シャワー設置アメニティ(ドライヤー、シャンプー、ボディソープ、Wi-Fi、ロビーPC)使用無料というところを見つけたので紹介しようと思う。
自罰心と文学
不幸になりたい人はいない、というのは真っ赤な嘘だと思う。確かに生きている以上、お金が欲しいだとか、自己実現がしたいだとか、人のためになりたいとか、そういった諸々の幸せに対する前向きな欲求があることは疑いようもないが、それと同じように、人間は幸せと同じくらい、時に不幸を欲するものであるとも思う。
社会学から鞍替えをして、せっせと文学理論やら文学史やらを勉強していると、社会学以上に様々な人と紙面の上で出会う。社会学には、方法論的個人主義などの個別具体的な視点から出発して理論を練り上げていくというような考え方こそあるものの、深い個人の理解というものはあくまで「精度の高い共通項の抽出」のために成される。文芸においては、表現というところに重点を置くため、人を引き付けるための理論の素みたいなものは絶対的に必要ではない。架空であれ実在であれ、人と出会うことは自分と出会うことであり、表現の目的というのは作者にとって「深い自分に出会ってもらうこと」であると同時に、「読者自身が深い自分に出会うこと」を喚起するものでもあると思う。
例えば太宰治は、典型的な「破滅型」の私小説を書いた作家として有名である。数々の愛人を作り、自殺未遂をし、服薬し、最終的に玉川上水で自殺をするという文学的偉人であるが、いってしまえば人間的にはどうしようもない方である。知り合いに太宰治がいれば、だらだらと交際を続けて一緒にカルチモンを飲む程の間柄になるか、「そういえば中学校のときクラスにいたかもてかそういえば俺2年のときクラス一緒だったわ」的な付き合いになるかのどちらかであろうと推察する。しかし、彼が文学的偉人として今日も太宰の小説が読まれ続けるという事実は、おそらく太宰が人間が持つ不幸への欲求に命がけで向き合った結果であろう。
何とはなしに歩いていると、たまに昔あった嫌なことを思い出して、なんだかまっすぐ前を向いて歩けないような、下半身の力がひゅるりと抜けていくような気分になることがある。もっとひどい場合は無意識の深海に記憶が沈められ、例えば早朝たまにみる悪夢のように、意図せずに自分を縛り付けてくる(もっとも、それさえ推測である)ものもある。そのような後ろめたさからゆっくりと立ち上がる自罰心というのは、どうしようもなく人を絡め取り、幸せから自分を遠ざけていく。
そのような圧力から逃れ出るためには、一体どうすればよいのだろうか。ウジウジしてるんじゃねぇ!などと一蹴する輩には、およそ文学は不要である。水平に投げ放った物体が落ちていくのと同様に、人間も惰性に従えば落ちゆくものであって、特に自罰心というのは、怠惰や甘えの吹き溜まりとなりやすい。不幸とは、時に入っていて気持ちのいいぬるま湯のようなものである。自分が不幸であれば、幸せが雲散霧消することを恐れることなく、何も求めさえしない限り、ずっとそこに安住することができる。
重荷のような思い出を抱えながら、一歩一歩進む。自罰心に自分を乗っ取られないように、常に動向をうかがいながら、挑戦と行動を繰り返す。亀の歩みのように、よろよろと自らの重みに揺らぎながら。それでも、何の後悔する思い出を持たないより、現状から外へ出られなくなるより、苦痛にまみれる自分の方がより自由なのだと言い聞かせる。太宰の文章が心を打つのは、自罰心にまみれながらも、そこに真理を少しでも見いだそうとした点にある気がする。
いつかの原風景
去年の9月から今年の1月にかけて、かなり忙しい日々を送っていた。ゴツゴツした岩のある、流れの急な川を一直線に流れ落ちていくような気がして、終始どこか心もとなく、自分がどこに行くのかわからない心持がした。へたりこみ、身体が泥のように座席にへばりつく丸の内線の車内で、ふと西日本を旅したときのことを思い出した。雨模様の空から一筋の光の束が差し込み、木々の間を抜けてその社が照らされた瞬間。なんでもない電車内の景色。漫画喫茶で心細く寝た夜。身体の力が抜けると、そのときのことが急に思い出されて、なんだかむずむずしたような気持ちになることがある。
上の写真は、伊勢神宮内宮の駐車場の奥にある饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)である。僕が伊勢を訪問したときは夏の終わりということもあって、紀伊半島に台風周辺の雲がかかり、雨が降ったり止んだりしていた。この写真は雲の切れ間から陽が差し、社が輝いている様子である。一瞬の光景だったが、随分と長い時間のことのように感じられた。
記憶はどんどんふるいにかけられ、忘れ去っていく。しかし、特に覚えておこうとか、忘れないでいようとは思わなかったのに、強烈な感情を伴って残り続ける景色がある。そこには当時自分が感じた情緒やらにおいやらが染みついていて、折に触れて不意に湧きあがる。夕立の後の雨上がりのにおいや、肌で感じる風の温かさ。遠い日の風景に、センチメンタルを感じたり懐かしく思ったりする。そしてそのような景色は、忙しく日々の細かいことに振り回されていると、ついどこかへ、簡単に置き去りにしてしまうような気がする。そして、それらの景色はどこか強烈な世界観を持っていたり、色濃い感覚と共に脳裏にこびりついていたりする。
小説や音楽を聴いていると、一節の言い回しやフレーズに強烈に引き込まれることがある。僕の好きな「くるり」の『ばらの花』はその典型で、イントロのピアノの音が物憂げな雨の様子を映し出し、宙ぶらりんな歌詞が、雨というごく小さな障壁に阻まれてどこにも行くことができない物憂げな雰囲気を作り出しているように感じる。ある番組によれば、くるりのボーカルである岸田さんが、雨模様の日に神社で歌詞の着想を得たという。
窓から西日が差す昔の家や夏休みのラジオ体操、雨が降りしきるアスファルトの街並みや、下校のチャイムがなる冬の帰り道。ほんのふとした風景の中に、自分のふとした感情や世界観が宿ることがある。誰かにその光景を見せてあげたいと思っても、その光景は当時の自分の状態に色濃く結びつき、伝達はなかなか難しい。そういった言葉で伝わらない孤独を乗り越えるために作られたのが文学の修辞法などの一連のテクニックであり、美術における画法であり、音楽におけるところの旋律であり、つまり芸術なのではないかとも思う。
夜空に向かって伸びる、トランペットとアコースティックギターの音。誰かの心の中に住まいつづけた原風景は、また誰かの原風景を生む。難しいことは抜きにして、なんだかそういうのは素敵だなあと思う。