言の笹舟

何となく考えたことを、写真と共に垂れ流すブログ。

「今までで一番良かった御朱印は」

趣味で御朱印帳をつけていると言うと、
 
「今まで行った場所の中で一番良かった御朱印は?」
 
と聞かれる。僕は考えこむ。「御朱印」という意匠自体の良さについて言っているのか、お寺全体を含めた上で良さを測るべきなのか。考えた挙句、質問文の行間を読まないでおこうと思って、「どこの御朱印もさほど変わりはない」と答えた。龍安寺の御朱印が単に「石庭」と大きく書かれた変わり種であったことを覗けば、どの御朱印も味があって良く、文字がウネウネしていてよくわからないものほどなんかいい、というのが一応の客観的な解答にはなるだろうか。

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 【京都:平安神宮
 質問の意図を前者としてとらえると、「どれもさほど変わらない」という結論になるが、後者としてとらえた場合、途方もない旅の思い出を聞かせることになる。御朱印は端的にその場所に行った証になるし、自他共に旅の思い出を振り返るときに大きな入口になる。本来御朱印とは修行の一環として霊場を巡り、自ら書いた写経を納めるという宗教的な意味がある。本来の意味に従えば、僕の納経帳の使い方は実際正しくない(注1) が、やはり行った証がものとして残ることは、過去の思い出を振り返るときに非常に頼もしい。「~に行った」という経験と今現在の僕の間には、本質的なつながりがない。特に一人旅の思い出は、自分が覚えていなければなかったことと同じになる。
 過去とは考えてみればかなり曖昧なものである。そういう中で、自分が行った証が手元に残っているというのは、やはり非常に頼もしく感じる。

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【京都:知恩院
 行った証なら写真でもいいのではないかと反論する人もあろう。実際、御朱印をやるのはなかなか金がかかる。御朱印自体でももらう際に200~300円のお金がかかるし、納経帳自体だって、1000円を下ることはない。少々野暮な話になるが、僕が集めた御朱印は43枚であるから、天竜寺が200円だったことを考えると300×42+200×1+1500=14300円は御朱印代に費やしたことになる(計算しなきゃよかった)。少し足を出せば、今持っている一眼の短焦点レンズが買えるわけだが、それでも御朱印には写真にはない魅力がある。それは、御朱印が「人の手によって実際に書かれている」ということである。
 大きいお寺だと御朱印を書く人が何人かいて、当然人によって御朱印の筆遣いが変わる。また、規模の小さいお寺だとおばあちゃんとかが細々とやっていることもあって、たまに二言三言会話をすることもある。熊野古道にある那智山青岸渡寺で、同じ天台宗の寺院である地元の川越大師喜多院の話をしたり、尾道の千光寺でおばちゃんにお守りを買わされそうになったり、小さな発見やエピソードに繋がることが多い。御朱印は人からもらうものであるというのが、確かに小さな差異ではあるが、見知った人がいない土地を旅行する際に大きな意味を持つのである。

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【三重:二見浦】
 今一度、自分の御朱印帳を見返してみる。一番良かった場所はどこか? あまり有名でない神泉苑か、無難に伏見稲荷大社か、伊勢神宮か、出雲大社か・・・・・・。そう考えるとキリがないが、今回は二見興玉神社をあげようと思う。二見浦は「夫婦岩」で有名なスポットであり、縁結びにご利益があると言われる。今思えばそんな場所になぜ男一人で行ったのかは謎だが、広大な海と神社が織りなす情景と、海辺の街が持つ独特の雰囲気は、未だに不思議な魅力を持った思い出として自分の中にある。明日になると、また違う場所が良かったと言い出すに違いないが、それぐらい御朱印は多くの魅力ある場所と自分を引き合わせてくれた。

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【三重:二見浦】
 少なくとも、一人旅に出るには十分な理由になる。ウェイサークルなどに入るなどのリア充になる機会をとことん避け続け、あまり多くの友人を持たなかった大学生時代の良き思い出である。

 

注1:前述の通り、御朱印というのは仏教的意味を帯びており、修行僧が霊場を巡って写経を納めた証としてもらうものである。だから、「寺社に行った証」としてもらうのは本来の意味とはかけ離れたものであり、ツーリズムの一環として解釈するのに嫌悪感を催す人もいる。実際、京都の西本願寺東本願寺はそのような理由から御朱印をやっていない。